マリコ・ポーロ
医療、保険、介護、保育、ごみの収集、警察、保安、交通機関、公共機関、生活必需品製造販売、宅配関連などなどの現場にいらっしゃる方々、本当にありがとうございます。
~覆屋の中、蓮葉院殿の御塔婆があがっている~
その前に、いただいた矢文のこと。
6月23日の八王子城落城にちなみ、八王子FMで2回連続「北條氏照伝」が放送されるそうです!
日時:6月5日(金)17:00~1710
インターネットでも聞けます!
原稿は氏照研究の第一人者である加藤哲先生です!←これがいいですよね~
八王子エフエム「八王子とんとん昔語り」
同じ都内ですが、今年は行けないね…
さて、本題。
督姫の母。
それは家康殿の側室「西郡局 にしごおりのつぼね」のこと。
つまり、北条氏直のお姑さんにあたる方です。
先の『麒麟がくる』に、鵜殿一族当主で西郡城主であった鵜殿長照が出ているとの情報をもらいました。土曜日の再放送を観てみようと思います。
なぜかと申すと‥
先日、五反田で高齢親の持病系用事を済ませた後、近くの星薬科大学の裏手に「長應寺」というお寺があることをフト思い出しました。
督姫の母 西郡局 は鵜殿一族のお嬢さんでした。局のお墓/供養塔が「長應寺」にあると、前に区の方から伺ったことがあったのです。枯渇している北条成分をほんの一滴でもいいので(本当に一滴だ)注入したく、お参りに寄りました。
▲ 鵜殿氏
西郡局の父鵜殿長忠は当主長照の弟で、局は鵜殿家当主の姪ということにされています(諸説あり)。
たぶんドラマでも描かれていると思いますが、鵜殿家は今川の家臣です。氏真の代になってから、当主長照とその他の一族とは別の道を選んだようです。当時よくあるお家存続のためかどうかは私には分かりませんが、長照は今川に残り、西郡局の父長忠たちは松平(家康)についたということですかね。
と、知ったようなことを書いてはおれど、マリコ・ポーロ 鵜殿氏という名前は聞いたことがありますが、個々の人物についてはまったく無知です。長照殿は、永禄5年に松平に攻められて討死されているようですね。
鵜殿氏の名前だけは聞いたことがあるというのは、その時に捕虜となった長照殿の子息たちが、例の、築山殿との人質交換となったからです。その後、子息たちも松平についたようなので、局と家康殿との縁もこのあたりから生まれたのでしょうか。
だからドラマで長照殿が出演されたのですかね。ということは、今後、ドラマに西郡局が出演する可能性もあるかもしれません⤴。いつになるか分かりませんが…⤵
前回のBS3 大河ドラマアンコール「葵三代」では、西郡局もチラッと出演していましたよね!家康殿だったか秀忠殿だったかの御前に数人の家康殿の側室たちが並び控えているシーンでした。
岩本多代さんという、当時たくさんのドラマに出てらした方が演じられていました。お顔を見たらたぶん誰でも知っている方です。静かで上品な控えめな感じの女優さんです、私の西郡局のイメージはこの方になってしまっています。
徳川さんにはあまり興味がなく(好きな方ゴメンナチャイ)、今川は好きですが鵜殿さんまでは興味の幅は広げられないので、鵜殿氏についてはこのへんまでにしてたもれ💦。
▲ 西郡局の肖像画
鵜殿氏菩提寺「長應寺」というお寺は時代の変換で三河から江戸、そして江戸でも火災などにより何度か移転してるようです。再建には西郡局が尽力しています。
これについては本筋とは離れ、その上長くなるので割愛しますが、興味がある方はお寺関係のネットで検索してくだされ。たくさん出てきます。「長應寺」は、今は北海道幌延町と東京の品川区とに2寺あるようです。
その中で、なんとなんと、局の肖像画を発見しました!それは、幌延町のFBにありました!
幌延町の「長應寺」の法要で毎年公開されるそうです。そこには、葵の御紋の長櫃や、お着物もアップされていました。これらは、鵜殿氏の誰かが家康殿から賜ったものでしょうか。それとも、西郡局が賜ったものでしょうか。
局の肖像画が当時書かれたものかどうかは私には分かりませんが、公家のお姫様のようです。もちろん、美人にて候!
そこには
「東照宮御内所 鵜殿長忠公姫君 蓮葉院殿日浄 慶長11年丙午歳五月十四日寂」
とありました。
▲ 西郡局のその後
~品川区の長應寺~
局が亡くなったのは慶長11年。お嬢さんの督姫様の没年が慶長20年ですから、娘よりは先に天に召されたのですね。良かったです。
葬儀の施主は、娘の督姫が氏直亡きあと再婚した池田輝政がつとめたとのこと。局はほぼ伏見城で暮らしたとありますし、京都の本禅寺に葬られたそうなので、亡くなったのも伏見城のようです。喪主を娘の夫がされたということは、子息はいなかったのかな。
鵜殿家は大久保家とも縁戚関係があり、我らが本城小田原にも所領がありました。
鵜殿氏まで興味の幅を広げられないし(クドイ💦)、なにより、西郡局へのエレガントな妄想からはずれてしまうのでそれを書くのはやめておきますが、ご興味ある方は小田原「妙了寺」のHPなどをどうぞ。
小田原には家康殿の側室ゆかりのお寺が多いのにもチトびっくりです。
▲ 品川区の「長應寺」にて
~門の上には変わったものが。イグアナ?なわけない。~
立派なお寺で、墓地の一角には鵜殿家の巨大な墓石が建ち並んでいました。
伺う前にお寺さんに、檀家ではないが勝手に墓所に入っても良いかどうか確認したところ、「どうぞどうぞ、入ってすぐのところに局の墓石がありますよ」とおっしゃってくださいました。
ところが分からにゃい。
いつも、どこに行っても見つけるということが出来ないマリコ・ポーロ。墓所をウロウロしていたところ、お仕事中の造園の方達が気にしてくれて(怪しかった💦)、「宝篋印塔なら一番奥に江戸時代の立派なのがたくさんあるよ」と。
「それは鵜殿一族の墓石群で、お局様のもそこにあるのかしら…?ひとつひとつジーッ見て探すのチト怖いけど、もう一回見てきます!」
タッタカタと走り出したところ…
「そこの(と覆屋を指し)、小さい宝篋印塔みたいなのは?奥のよりは古そうだけど…」
と、親方。
見ると、他の墓石の後ろにあったので気が付かなかったお墓が、こじんまりと、いかにも女人のお墓っぽく建っていました。
これかな~、それっぽいな~、どうかな~。急に思い立って来たので法名も分からない…。
「ちゃんと調べてまた来ます。ありがとーござる」。
「いったい誰のお墓なの?」と親方。
「家康の側室のひとりで、小田原の北条の当主の正室のお母さんなんです。では、お去らばえ~。」
門を出たところで、遠くから、
「奥さーーん、奥さーーん」と親方の声。
最初はお寺の奥様でも読んでらっしゃるのかと聞き流しておったら、親方が手を振ってらっしゃる。ワテ?どう見ても「おじょうさん」ではないし、「おばさん」とも呼べないでしょうから、ワテね。
お弟子さんが興味を持ってくれてスマホでネットを見てくれたそう。やっぱり覆屋の中の小さなお墓がそうでした。そこに出ていた法名と、墓石や御塔婆の法名が同じ。
いや~、やっと分かりました。広い境内と墓所を皆で走り回っちゃいましたよ。密にはならなかったですが、初めから検索すればいかった。お騒がせしました。ありがとうございます!
一息クールダウン。
局の墓前に手を合わせながら、「ブログに書かせてくださいませ。素敵な女人に書きますね」と申しました。その約束はあんまり果たせまず、申し訳なく存じます。
お花を持ってくれば良かったな…。
西郡局のお墓や供養塔は日本の各地にいくつかあります。アチコチにお墓や供養塔があるということは、残された人達に故人がそれだけ大切に思われていたということです。
東照大権現の子を成した方という重みもあるでしょうが、いつもでもどこでも偲びたいと思わせる方だったのですね、西郡局って。
しっかし、
マリコ・ポーロに注入されたのは北条成分ではなく、鵜殿成分でしたわね。
それにしても…
2月1日の仲間内の新年会が新型ウィルスにより中止になって(みな高齢者のため💧)、以来、4ケ月にわたり籠城生活が続いておりました。公共交通機関で仕事に行かなくてすむだけでも、ありがたいのですが。
我が家のまわりは超住宅密集地で高いの建物も多く、山や海はおろか空もろくに見えず風も通りません。墓地とはいえ久々に広い敷地で空を仰ぎ見ることができました。
西郡の方さまに感謝です。
🐎 「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」
🐎 氏直を書いた以前のブログ記事のごく一部です、よろしくば~
・「北条家臣 桜井武兵衛さん、はしりめくる!」
・こちらにかなりの記事をまとめましたので是非ご覧くださると嬉しいです
「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
・こんなふうなシーンをドラマでやってほしいな~と書いた妄想脚本のワンシーン
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
🐱 マリコ・ポーロの アナザーブログ~萩よりほかの花も見るべく
「戦国時代の城跡にて~天南星」
今回は八王子城の花のことを書きましたので、暇でどうしようもない時にでもご覧いただけたら嬉し。
萩真尼 こと マリコ・ポーロ
画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。