マリコ・ポ-ロ
「山河令」中国時代 ブロマンスドラマ(BS111放送中)の毒に侵され某作業は滞り中……
~図録より(大阪城天守閣所蔵)~
行田市郷土博物館にて先日まで開催されていた企画展『天正十八年~関東の戦国から近世~』の図録をいただきました。
解毒のためにと、パラパラと拾い読みしていてビビッ!ときました(また💦)。
それは、小田原降伏後の氏政、氏直、氏照らの処遇についてです。
氏直が「自分が腹を切るから城兵たちは許してやってくれ」と嘆願したのを秀吉が「神妙である」と氏直は許し、氏政と氏照らには切腹を申し付けた……のだと思っていました。
上の写真は、秀吉殿が神戸二位法印という方に宛てた手紙です。
陣中見舞のお礼に続き、「……氏政と家老たちが切腹するかわりに城内の将兵を助命してほしいと願ってきたので、その通りに申し付け、本丸にわが軍を進駐させた。氏直も秀吉の御意のままに自分も切腹すると申し出てきたが……」
……遠路入念到来、悦思食候、就中小田原事氏政其外家老者可切腹候之条、城内諸卒相助候様尓と相歎候条、即右者共切腹被仰付、……
と伝えています。
この書状の日付は7月6日。前日7月5日、氏直は降伏し城を出ています。
マリコ・ポーロ古文書が読めないので💦良く分からないのですが、氏政とその家老(氏照たち)が切腹するから城兵を助命してほしいと「願っている」のは、氏政自身が願っているのでしょうか?それとも、氏直が願っているのでしょうか?
まさか氏直が「父と叔父たちを切腹させるから、城兵たちを許してほしい」と言ったとは思えません。
氏直が、「父たちが、自分達が切腹するから城兵たちを許してほしいと願っている」という意味ですよね?
また、氏直が降伏した5日の時点では、氏政たちはまだ出城を渋っていると思っていました。これまでに読んだ本、例えば黒田基樹著『北条氏年表』(高志書院2013.8)の「同月十日、最後まで出城を拒んでいた氏政も居所から退出し……」はじめ下山治久氏、小和田哲男氏などなどなど全ての本にはそのようなことが書かれています。
でも、もしこの「願っている」のが氏政自身でしたら、氏直が城を出る時には、氏政の気持ちはもう決まっていたことになりますよね。
と、ここでふと💡、故森田善明氏が『北条氏滅亡と秀吉の策謀 小田原合戦・敗北の真相とは?』(洋泉社2013.9)に何かそのようなことを書いてらしたことを思い出しました。再読すると、ありました!
7月5日の秀吉が氏直に宛てた書き付けに、氏直とその他の人たちの処遇について書かれていますよね。
この書き付けは小早川家に写しとして残っているものですが、山室恭子氏が『群雄創世記』(朝日新聞社)で、小早川家にあることからも、降伏した北条家に対してこのような処置をしたぞということを諸方に周知させるための宣伝ルーツだった……というようなことを書いてらっしゃるそうです。
森田氏は、だから、「ここで秀吉が述べているとおり、氏直が本当に自分の切腹と引き換えに、諸勢の命を助けてほしいなどといったのか、それすらも疑わしい」と書いています。
秀吉がなぜそんなウソをついたかというと、自分の情け深さをアピールできるからではないかと。
出頭してきた氏直の言葉を直接本人から聞いたのは、家康、滝川、黒田あたりでしょうか?直政でさえ直接聞いてないですよね。直政の浅野長政への手紙には、滝川あたり(?)から聞いたように書かれていますよね。
もしかしたらこれまでの小田原はじめ各地の企画展などで、この秀吉の神戸二位法印(て誰?)宛ての書状を目にしたかもしれないのですが、今初めて気が付きました。手持ちの数十冊の本や図録や文書集などを見直してみましたが、この秀吉の書状のことは見つけられませんでした。
以前書いたこちらのブログ記事とあわせてご覧いただけると助かります。→「北条氏直は最初に家康の元へ降りた」
ふぅ~。けっこう解毒されましたが、また明日から金曜まで「山河令」を観るから再び毒に侵されちゃうことであろうて。
「北条氏直の投降は、走ったのか?」
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
「その①~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その②~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その③~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
「その④~北条氏照を 介錯 した「伊勢大和守」」
マリコ・ポーロ こと 萩真尼
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