マリコ・ポーロ
~新曲輪や新正寺曲輪は江戸時代はどうなっていたの?~
ブログで何回か書いてきた為さま(北条為昌/氏康弟)の菩提寺である「本光寺」があった小田原城内(城下?)の場所について所説あることを知りました。調べ直し始めたとたん、為さまの大甥(兄氏康の孫)である 太田源五郎/国増丸 の菩提寺のことへ興味が脱線していってしまいました。
🐎 源五郎くんとは
幼名は「国増丸」。
今はどこにも書かれていることなのでザックリ書きますが、小田原北条四代氏政の息子で五代氏直の同母の弟。氏房の腹違いの兄だとされています。
そう。謙信の下へ養子(証人)として行くはずでしたが、景虎さんと代わった少年です。パパ氏政が実子への思いが強く、またまだ小さかったため行かせたがらなかったとか、いやそうではなく、すでに岩付へ入れる予定だったとか所説言われています。
🐎 岩付入り
天正の初め、国増丸くんは、北条の岩付支配のため岩付の太田家へ婿入りし 太田源五郎 を名乗ります。正室については太田氏資の娘・小少将だとされていますが、これらも所説ありです。
源五郎くんが他界したのは天正10年7月。まだ18才前後でした。
岩付はすぐ弟の氏房によりパパ氏政バックアップの下に支配が続けられています。
さて、マリコ・ポーロ がなぜ急に源五郎君に興味をもったかと申すと…
先日、某先生が、源五郎くんの菩提寺が小田原城内にあったことを教えてくださったからです。(ありがとうございます🙏多謝、コップンカー)
知らなかった…
というか、岩付城主だったので菩提寺も岩付にあったのだろうぐらいに考えていました。
それは「広徳寺」というお寺で、早雲寺の和尚を招き早雲寺の子院として開山されたそうです。
広徳寺について手持ちの貧しい史資料を見たりネットで様々検索しました。けっこう出てきました。しかし、「源五郎君が小田原に開山した」ぐらいのことしか書かれていないものが多かったです。
岩付城主だった源五郎君がわざわざ小田原に開山するかなあ…。他に何か資料はないかと考えていて、ハッ👏 と思い出しました。
広徳寺は早雲寺さんの支院ということですよね!早雲寺史研究会さんの『早雲寺 小田原北条氏菩提所の歴史と文化』という本を持っていました。企画は箱根町立郷土資料館。1990発行というチット古い本ですが早雲寺についてとても詳しく書かれていて、確か支院についても載っていたはずです。
本棚から引っ張り出して開くと……ありましたよ~広徳寺 ✌
~以前、早雲寺さんからいただいた湿生花園ヒツジグサのお葉書、気持ちが安らぐので箱根寄木細工の額に飾っている~
概要は皆さんがブログに書いているようなことですが、チト違うのは…
▲ 開山は早雲寺五世明叟宗普 みょうそうそうふ とされるが、実際は、宗普の弟子である十一世住持希叟宗罕 きそうそうかん である。
ちなみに宗罕はその後大徳寺132世住持となり、早雲寺で宗罕の後を継いだのが岩付平林寺(現在は新座市?)の住持でもある太翁宗安だそう。
へえ~平林寺かぁ…。
▲ 広徳寺を建立したのは源五郎君ではなく、源五郎君の岩付を継承した弟の氏房だそうです(実際はパパ氏政や兄上氏直が主導したのであろうが)。
ですよねー。岩付へ行った少年の源五郎君が小田原にお寺を建立するのも不自然な気がしますよねー。仮に建立するならば岩槻にでしょう。
私は、最後は病となりパパ氏政が小田原へ引き取り小田原で身罷ったのか、もしくは亡骸を小田原で引き取った。その後、亡き息子のために氏政が小田原に菩提寺として開基したのではないかとも考えたりもしました。
たぶんそうなのでしょうけれど、施主は氏房だったのですね。
そして!
ビビッ💡 ときたのは…
▲ 『大徳寺誌』に、
~「檀越北条十郎氏房成、岩築城主、後に此れを移す」とあり、広徳寺が、氏房が岩付城主になった後、岩付に移されたこともありえよう。~
とあったことです。
ドびっくり~😲
というか、やっぱり!!
先にFBやXで、岩槻に源五郎くんの菩提寺跡や供養墓などがあるかどうか御存知の方~と伺ったのですが、どこからも連絡はありませんでした。
もしかしたら広徳寺自体が移転したのではなく、岩付のどこかのお寺にお位牌を移した…ということもあるかもしれません。早雲寺繋がりで、平林寺とかとか?
でも、これで可能性が出てきましたよね!
どなたかご存知の方いらっしゃいましたら、教えてくださいませ🙇
小田原が降りた天正18年以後、広徳寺は小田原から江戸へ。江戸内でも移転し、今は練馬区桜台(氷川台駅)にあります。現在も臨済宗大徳寺派です。
HPを拝見したら、大本山京都大徳寺もものかはの塔頭が並ぶもっの凄く立派なお寺でした。墓所はもちろん境内には入れないそうです。ゆえに、源五郎君の供養墓や御位牌があるかどうかも不明です。
源五郎君は12才程で岩付城主となり、15才前後で元服。早世し、実名も分かっていません……
🍷 源五郎君亡き後の岩付については、以下に書きましたのでご興味あらば
「北条氏房の妻は太田の娘ではないのか!?」2021
「岩付城を築いたのは、太田か成田か?」2015
「『玉隠と岩付城築城者の謎 自耕斎詩軸并序を読み解く』 を、読み解く!」2021
「岩付城、大手の土塁と櫓台跡(非公開)などを見学」2024
「「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?」2015
「今年も早、岩付城開城です(2022)」
「今20日未明、岩付城へ総攻撃はじまる」2013
「岩付城の続編・城は今日落ちた」2013
「岩明均 『雪の峠』 (1999)」
🍷
拙書『北条五代の娘たちー姫君たちの足跡を追って』『早き雲と青き空を追いかけてー伊勢新九郎・北条氏照見聞録』のこと
→「拙書を増刷しました」
マリコ・ポーロ
🐱コメント欄は公開させていただいてはおりませぬがご感想なりいただければ嬉しいです。写真は全てマリコ・ポーロが撮りました。