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Channel: 風なうらみそ~小田原北条見聞録
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シンポジウム~戦国期における大名と「国衆」(2017.7.16)

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by マリコ・ポーロ


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~レジュメの厚さ、なんと A3 で 6mmwobbly。これさえ読めば、今の「国衆」が分かる?~


最近トント聞かなくなった「国人」という言葉


真田丸にも増して直虎さんでは「国衆」とい う言葉が、登場人物のセリフの中で連呼されているのが気になっていました。

古い人間である上に、専門的に歴史を勉強したわけではないので、学問上の専門用語にいまひとつ、ふたつ、みっつ疎いところがあります。「国衆」って、国人の集合体を表す「国人たち」の意味かとおもっていました。違うんですね。「国人」個々を言うのですね。「国衆」とは、「戦国期の史料に見られる用語を概念化したもの」だそうですね。当時の記録にチビットは書かれてはいるものの今とは使われ方が違うそうな。


戦国史研究会(協力・室町期研究会)の7月例会「戦国期における大名と「国衆」」のシンポジウムを拝聴して参りました。

著名な先生方や若手人気研究者の方達もいらっしゃていて、休憩時間などに質問したきこと数多(あまた)あれど、いつもの一般向けの講演会とは違い、恐れを知らぬマリコ・ポーロも流石にちょっと遠慮してしまうプロフェッショナルな雰囲気が会場に漂っていました。


シンポジウムでは、今までの研究成果の整理や、様々な文書をもとに地域別に「国衆」についての報告がされました。「国衆」の定義は地域によってもマチマチなんですね。。

それぞれ例に挙げる文書の解説も長くて、私のような素人には難しく途中途中で朦朧族sleepyになりながらも、初めて知る話も多かったので大変面白かったです。


karaoke地域別報告は下記の如くなり。

▲ 東北 「田村氏の存在形態~南奥の国衆」
▲ 関東 「真壁氏と佐竹氏の関係を中心に
▲ 中部 「信濃高梨氏の国衆化」
▲ 東海 「国衆の本領・家中と戦国大名~今川領国を事例に」
▲ 北陸 「上杉氏における国衆の譜代化~北条・毛利安田氏を素材に

そんな「国衆尽くし」の中で、終始「国人」で報告を通した方がいらっしゃったのにも興味をそそられました。


▲ 畿内 「畿内近国における国衆の特質」
▲ 中国 「中国地域の戦国領主について」
▲ 四国 「土佐の地域権力」
▲ 九州 「戦国期南九州の有力領主」

脳内いっぱいいっぱいになってしまったので西日本の報告は近畿だけ拝聴して、お先に失礼しましたが、西日本では「国衆(国人)」という考え方は最近までなかったんですってね。どうりで、報告のタイトルにも「国衆」という言葉は無く、「戦国領主」「地域権力」「有力領主」ですね。ちょっと拝聴したかったにゃ。


「国衆」については、黒田基樹氏はじめ様々な方のご研究がありますが、先日発刊された ↓ こちらでも、この日のシンポジウムで東海地域の発表をされた糟谷幸裕氏や、遠藤英弥氏が書いてらっしゃいます。

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~『今川氏研究の最前線』 大石康史編 日本史史料研究会監修、洋泉社~


北条五代の娘たちを書き始めて、初期北条の婚姻に今川(特に葛山)との関係が濃厚なのに気が付き、この本を買いました。こちらでも、「国衆」ではなく「国人」を使っている方もいらっしゃいますし、「半国守護」なる言葉も出てきました。ナンジャそりゃ??

当時の時代によっても違いますが、それにしても分からん despairそのカテゴリー。

国衆、国人、戦国領主、地域領主、分郡領主。国主、戦国大名…etc.etc.。


フト思ったのですが、例えば私がブログで書き続けている北条五代の娘たちの嫁ぎ先を簡単に一言で言い表す時は何と言えばいいのだろうか。三浦は「今川の重臣」と書いてきたけれど、それでいいのかな?葛山は「駿河の国人(国衆)」でいいのですかね?いや、「氏」の名を与えられているから、すでに「今川の御一家」か?江戸太田は「上杉の重臣(だった)」?では、世田谷吉良は?戦国大名でもないし、もちろん国人(国衆)でもない。足利公方の一門かな。吉良は特別なのかしら。「吉良殿様」だしね。

つまりは、宗瑞の時代でも、国人カテゴリーには娘を嫁がせていないということか。


というか、そもそも、そこまでのカテゴリー分別(ぶんべつ?)が、ただのブロガーの書くブログ記事に必要なのか?ってこと。


wineシリーズにしている「北条五代の娘たち」ですが、調べることがとても多くなかなかアップできておりません。それに…このシリーズ、ほとんど読んでくださる方がいないようで、アクセス分析を見ると、どうやら月に数人。えーん。でも、ライフワークとして続ける所存でござる。次は少し順番が変わりますが、旬の、今川氏真室の早川殿に思いを馳せたいと思います。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻

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by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【三代・北条氏康 編】


Photo
~今川氏真・早川殿夫妻の終いの棲家跡を、向いのスーパーから俯瞰した。現在の東京都品川区の大井町駅あたり。今はなんの遺構も碑もない。~


先年からヨロヨロと追い続けている【北条五代の娘たち】。早雲こと伊勢宗瑞の娘達に始まり、ただ今、二代氏綱の娘達の途中ではありますが、ここでちょっと順番を割り込んで、大河で旬の今川氏真室 早川殿のことを思ってみました。


wine早川(早河)殿
パパ: 北条三代当主氏康
ママ: 瑞渓院(父・今川氏親/母・寿桂尼/兄弟・今川氏輝、義元)

兄弟: 氏政、氏照、氏邦、氏規、上杉景虎
姉妹: 七曲殿(綱繁室)、千葉親胤室、長林院(岩付太田室)、浄光院殿(足利公方室)、桂林院殿(武田勝頼室)

などなどの他に、イトコやなにやらで父氏康の養子女となった義理の兄弟姉妹まで入れると、ウジャウジャウジャウジャ。早川殿は、それらの長姉と考えられています。


北条の女人たちは、嫁ぎ先が滅びたり同盟が崩れたりしてもすぐに実家に戻らない方が多いですね。帰れと言われてもガンとして戻らなかったり、遠国へ渡ったり、夫君と共に命を絶ったりする女人が幾人か浮かびます。前にも書いたかもしれませんが、それは何故だろうと考えることがあります。

相手への情愛が深い情熱型の女人が多かったのか。はたまた、細かくて窮屈な北条(そうなのか?coldsweats01)に比べると、嫁ぎ先は居心地の良いところだったのか。それとも、北条には戻り難い雰囲気があったのか…いや、幻庵大伯父が引き取り後は後見となって面倒をみてくれるので、それはなかったと思いたいですよね。


北条家には、その幻庵殿が娘を吉良氏朝(頼康の次代)へ嫁がせる時に渡した、他家への嫁入りの心得書『北条幻庵覚書』というものがあります。

やはり、その教えが、北条一門の女人達には根付いているのではないかと思うのです。


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~『北条幻庵覚書』 永禄3年12月16日


放映中の大河ドラマ「直虎」に出てくる、今川氏真の正室 早川(早河)殿 も、そんな女人たちの一人です。

氏真や早川殿のことは以前にたくさん書きましたので、そちらもあわせてご覧くださると助かりまする(文末に添付)。


上にも書きましたが、早川殿は、我らが氏政や氏照たちウジャウジャ兄弟姉妹の、一番上のお姉さんだとされています。つまり、早川殿が子供だった頃はまだ北条の初期です。

伊勢宗瑞の質実な暮らし方を色濃く受け継いだ小田原や、領地争奪の戦の日々に明け暮れる東国から京の香りに溢れた駿府へ入った 16-7歳 の少女にとって、嫁ぎ先はどれだけ華やかに見えたことでしょう…たぶん。

猛々しい戦国武者や超ワンパクな弟達(そうか?)を見慣れている身にとって、氏真や義元や今川の側近たちはどれだけエレガントなジェントルマンに見えたことでしょう…たぶん。


なーんて、北条の曽祖父の実家の伊勢家は京の将軍家の取次ぎの家。母上は今川の出。それほど粗野で野暮ではなかったはずですが、それでも、今川はきらびやかで shineアカデミックに思えたことだろうと想像します。

寿桂尼は御祖母様。大叔母の長松院(宗瑞娘)も重臣三浦家にいますし、弟クンの氏規もすでに駿府にいたでしょうから、心細いこともありません。たぶん。

(とんだ見当はずれだったらゴメンナチャイ、早川殿…)


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~氏真や早川殿が一時過ごした小田原の早川。早川は、小田原市街から川(早川)を渡ったところ。石垣山城の麓の漁港である。~


氏真が武田によって駿府を追われてからの行動は皆さまご存知の如くですが、夫妻一行が難民となって小田原へ来た時、なぜ城内エリアではなく、川の向こうに彼らを置いたのかがずっと気になっています。


① ただ単に、夫妻の屋敷を城内エリアに建築するまでの仮住まいだっただけ。(完成する前に出ていった。)

② 人数が多くて、城内エリアに高級難民キャンプとするに適した場所がなかった。

③ 早川は幻庵の管轄地。北条の出戻り組は幻庵が後見担当だったから、自然の流れで小田原に一番近い早川村になった。

④氏政さまが、城内エリアに置くことを嫌がった。もちろん、個人的好き嫌いではなく政策的理由で。


う~ん。think


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html

「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「今川から戻った長松院様~北条五代の息女たち①」
伊勢宗瑞(北条早雲)の息女たち
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

「北条氏康ご正室瑞渓院の二つの菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-653a.html

「太田に嫁いだ浄心院は二人いた!~北条五代の息女たち②」
二代・北条氏綱の息女たち、太田資高室
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「浄心院は三浦道寸の娘ではなく、北条氏綱の娘ではないだろうか?」
二代・北条氏綱の息女たち、太田資高室~続編
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html

「上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり~北条五代の息女たち③」
二代・北条氏綱の息女たち、吉良頼康室
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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東博で等伯 「びょうぶとあそぶ」美術体験

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by マリコ・ポーロ

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等伯の「松林図屏風」&光琳の「群鶴図屏風」と映像との、新しい表現手段を使った展示を「体験」してきました。

高精細複製の「松林図屏風」を囲み、左右頭上に「瀟湘八景図」の壮大な景色が広がりました。特に冬の映像は圧巻でしたよ~lovely


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「群鶴図」では、部屋に入った人数だけ鶴が舞い飛び、一緒に戯れることができます(周りに恥ずかしくなければ…)。

う~ん。どう書いていても、この宇宙観は伝わらないですねえ。写真に撮るとチャッチイですにゃbearing。こげなものではごわはんで。ご興味ある方は、はよ行って、体感してみてたもんせ~。9月3日(日)まででごわす。


漆工室の蒔絵の展示も素晴らしいです!

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~鎌倉から室町の鞍が素晴らしく美しかった…~


足利尊氏さまheartの御教書も出ていました。今川範氏に発給したものです。2階の「武士の装い」室です。

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cherryblossom不忍池畔にある長浜の観音ハウス

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東博の帰りは恒例となったルート、不忍池畔にある滋賀の「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」に寄りました。

不忍池を琵琶湖に見立てた静かでシックな小さな空間には、戦国の戦火から村人たちによって守られた観音様たちが定期的に交替でお出ましになります。観音の里の映像が流れ、外の景色とあいまって、喧騒の上野公園にいるとは思えないまったり感。ゆっくり鑑賞(お参り)できます。

この日は観音様の日(毎月18日)ということで、甘茶をいただきました。


観音の里長浜にあまたさぶらいける観音様。ひとりの観音様の展示はだいたい2ヶ月とのこと。今は余呉町の川並地蔵堂の「聖観音立像(平安時代)」がいらっしゃいます(写真)。スッキリ小柄で素敵でした confident

次はどなたがいらっしゃるのかな~。HP→http://www.nagahama-kannon-house.jp/


「国宝 「檜図屏風」 by 狩野永徳」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/by-f7f7.html
「「洛中洛外図」が霞んでしまった「二条城障壁画」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-ec61.html

「白洲正子展「神と仏、自然への祈り」世田谷美術館
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-13d7.html
「伊東マンショ と 湖北の観音展)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/7-82016-a39e.html

「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html
「みちのくの仏像」展と、会津の徳一」東博
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-70b4.html
「藝大美術館 興福寺仏頭と十二神将の企画展」のこと
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/2013-1dd6.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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2017 秋冬の気になる歴史企画展・歴史講演会など

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(滝山城の講演会を加筆しました)

その前に…

8年前の9月3日に当ブログを始めました。

当時は、古河公方も関東管領も良く知りませんでした。太田道灌は江戸時代初期の人だと思っていましたsweat01。全然知らないのに、知らないからこそ結構知っていると思って、恐れも知らず歴史ブログを始められました。

少しは知るようになった今より、知らなかった頃に書いていた頃の方がアクセス数も遥かに多く、滞在時間も長いのは何故なのでしょうか。ワクワクドキドキのパッション感でしょうか。


いつもコメントをくださったり、声をかけてくださったり、お知らせの矢文をくださったり。本当にありがとうございます。心より感謝申し上げます。

さて、北条五代の娘たちを追いかけ初めてから早1年。彼女たちの夫君の人生を調べるのに手間取りなかなか更新出来ませんが、こちらもゆるゆる続けていきながら、9年目に突入です!


201091
~9月9日は重陽の節句、菊のお節句です~


以下、矢文をいただきました!


horse滝山城 歴史講演会

続・日本100名城記念の講演会。もっの凄い魅力的な講演会です!書状類の「由井」とはどこだったのか?興味津々!さっそく申し込みました~scissors


日にち: 10月29日(日)
ところ: 八王子労政会館
主催:NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会


・講師: 小和田哲男
「北条領国における滝山城の歴史的意義」

・講師: 中田正光
「遺構から読み解く滝山城」

・講師: 峰岸純夫
「由井・滝山・八王子城三転説批判」

受講料:1,000円 
定 員: 200名

申込締切:10月10日(火)必着(応募者多数の場合は抽選)

詳細はHPを→http://takiyamajo.com/html/events.php


horse武蔵武士 再発見!
「武蔵の中世文化財活用プロジェクト」

埼玉各地の会場で企画展・シンポジウム・講演会・ツアーが目白押し。埼玉の方達はすでにご存知でしょうが、その他の地域の方達はご存知ないかもしれません。HPはまだのようなので、書きます。申込など詳細は私も分かりませんので、それぞれお問い合わせいただけると助かります。


(講演会karaoke
・11/4(土) 「中世東国社会と女性たち」 埼玉県立熊谷図書館
・12/15(金) 「鎌倉時代の後家尼の力(仮)」「比企の尼(仮)」 国立女性教育会館
・12/23(祝) 「武蔵武士の本拠と本領」 国立女性教育会館
・1/27&28(土・日) 「武蔵武士とその本拠」 国立女性教育会館


(企画展 eye
・8/22(火)~12/3(日) 「比企の中世 Part1」 東松山埋蔵文化財センター他
・8/30(水)~9/30(土) 「中世の児玉地域-武蔵武士の活躍」 早稲田大学本庄リサーチパーク
・10/7(土)~11/23(祝) 「中世社会と女性たち」 埼玉県立熊谷図書館
・11/25(土)~1/25(木) 「武蔵武士とその時代」 埼玉県立熊谷図書館
・12/2(土)~2/18(日) 「武蔵武士とその本拠」 埼玉県立嵐山史跡の博物館


(バスツアーbus
・2/9(金) 「武蔵武士の本拠を訪ねる」 大久保山児玉地区


ふぅ~。凄いですねえ。どこのどれに行ったらいいやら困っちゃいますねえ。


horse第2回 「岩櫃城フォーラム」
戦国終焉!戦国末期の上野の国と岩櫃城

日にち: 10月28日(土)
会 場: 東吾妻町コンベンションホール


内容: こちらもHPが見つからないので書きます。以下。

(岩櫃城保存整備事業説明)
東吾妻町教育委員会

(講演1)
講師: 平山優 氏
「真田信之時代の岩櫃城~天正・慶長年間の上野戦国史~」

(講演2)
講師:秋本太郎 氏
「戦国末期の城郭~箕輪城跡の調査から考える~」

定員:400名、会場が満席になり次第締切
問い合わせ: 東吾妻町教育委員会事務局 0279-59-3370


面白そうです!
わたしは参れませんが…


と、そんなこんなしているうちに、文化財ウィーク、早雲寺「曝涼」、鎌倉「風入れ」や、三増合戦まつり、伊勢原まつり、葛山城址まつり、小田原の遺跡調査発表会などなどなどの時期になってしまいます。

あっという間ですねえ、人生は。四十九年一睡夢← もっと生きちゃってるけど bleah


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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本城 小田原でもスーパー連続講演会です!

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その他、前回のブログ記事に続いて気になる講演会・ツアー・戦国まつりも下記に追加しました。

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前回のブログ記事で、津久井や埼玉の連続講演会を凄い凄いと騒いでおりましたら、出ましたよ!小田原。さすが我らが本城、ファンタジーワンダーランドでの3ヶ月連続講演会は超スペクタクルです。


おっと、その前にまたで恐縮ですが…sweat01

昨日は、ファンタジーワンダーランドでの「キャンパスおだわら」の歴史講座に行って参りました。(急いで連続講演会を知りたい方は先に下方をご覧くだされ。)


講師は小和田哲男先生。タイトルは、「北条氏と両上杉氏の抗争」

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両上杉とは言わずもがな、扇谷と山内(含む・謙信&景勝ら)。内容は、北条早雲こと伊勢宗瑞~天正18年の上杉はじめ北国勢による鉢形や八王子城攻めなどまでの、100年に渡る上杉と北条の抗争についてです。

時系列でお話ししてくださったので脳内整理ができて良かったです。また、享徳の乱について、やはり先生も、「関東戦国史を語るのに、とても意味がある」とおっしゃっていました。


最もビビビッときたのが、北条vs上杉とは関係のない最後の最後のお話しでした。

▲ 偏諱(へんき・かたいみな)について

例えば…
信玄(晴信)や謙信(輝虎)、伊達輝宗・政宗などなどなどは、京の将軍家から一文字もらっていますね。今川義元などは格上なのか「義」の方をもらっています。

ところが、北条はそれをしていません。北条はなぜ将軍家から名前をもらわなかったのでしょうか?


先生は、将軍家から距離を置きたかったのではないか、宗瑞からのそういう考え方が五代に続いていたのではないかとおっしゃっていました。とても興味深いです。

あれ?となると、北条の「氏」は今川からきているのでしょうが、では、今川の「氏」ってどこからきちょるのですか?


もひとつ恐縮ですが、締切が近いのでお先にご紹介。

horse地元中学生が案内する小田城

日時: 9月23日(土)10:00 馬出門集合
申込締切:9月20日
申込:箱根町企画課 0460(85)9560


昨日、小田原城で予行演習中?の中学生たちに遭遇しました。引率の方がおっしゃるには、中学生たちは夏休み中をかけて勉強したそうです。「このように一生懸命なので、たくさん来てほしいと思うんですよねえ」と。

手話や英語もですよ。凄いですねえ。素敵な企画だと思いました。私もお休みだったら是非参加したいと思うのですが残念なり。

HP→http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201709/CK2017091402000169.html


やっとこさ本題。

horse小田原の、長きに渡るスペクタクルな血湧き肉躍る「連続講演会&シンポジウム」のお知らせです。数年前の、御用米曲輪の連続見学会のワクワクドキドキ感再び!


Photo

講演会は、天守閣の特別展「小田原北条氏の絆~小田原城とその支城~」(冒頭の写真)の一環として催されます。こちらも大変魅力的です。各支城からもお宝がワンサカ集結するようです!我が八王子城からはベネチアレースガラスか参陣。


▲ 特別展
期間: 10月1日(日)~12月24日(日)


▲ 連続講演会&シンポジウム

浅野晴樹関東管領(?)、お馴染みの佐々木健策氏と齊藤慎一氏、伊豆の姫様池谷初恵氏(順不同)らによる、氏政兄弟衆とその城についての講演や、重鎮小和田哲男氏と小野正敏氏、諏訪間順館長、新進気鋭の竹井英文氏(順不同!)らによる講演などなどが、3ヶ月連続で怒涛のように催されます。

内容はもちろんのこと、講師陣もこれまた豪華絢爛shine。当然抽選ですが、どの催しも競争率が高そうですね~。


日程:
(講演会)11月18日(土)、12月10日(日)
(シンポジウム) 1月13日(土)


詳細はHPを…と申し上げたいのですが、HPはまだのようです。現在の特別展「小田原城武者揃え~戦の時代の装い~」が終わったら(9/24(日)まで)、次がアップされるのだと思います。

申し込みの締切は11月以降なので、それまで暫定的に上の写真を拡大してご覧くだされ。よく見えん?すみもはん。小田原ならチラシが配布されていると思います。


おっと!
上記の兄弟衆についての講演に、五男(養子もいれたら七男)の景虎さんがいませんね。

すでに申し込みは終わっていますが、9月30日に、我が城八王子の生涯学習で、乃至氏による講演会「御館の乱と上杉三郎景虎~北条氏康の七男、越後に起つ~」があります。私はお休みが取れないので参れませんが、行ける方、羨ましかと~。


まだまだあります。

horseクラブツーリズムのツアーの数々

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~裏側のページにも満載~


▲ どれもそそられますが、簡単にチャチャッと行けるのが、現地集合解散の「出張!お城EXPO!in 小田原」(画像一番上)。

日にち: 10月9日(月・祝)
料 金: 2500円


(午前の部)10:30~12:30
・城郭ライター萩原さちこ氏
・小田原城天守閣館長 諏訪間順 氏が語る「あなたの知らない小田原城の世界」
あなたの知らない世界…ひえぇ~coldsweats02  こわい~(ちゃうちゃう怖い話じゃない)


(午後の部)14:00~15:30
・歴史研究家:小和田 泰経氏、歴史芸人:長谷川 ヨシテル氏

などなどだそうです。


私はクラブツーリズムとは関係がありませんが、歴友師匠さんが石垣山一夜城を案内したり、お城EXPO実行委員会にも旧八王子城を守る会の知人方がいるので、チト宣伝をさせていただきました。

詳細はクラブツーリズムさんのチラシをゲットするかHPを。


horse戦国まつり

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▲ 第50回「伊勢原観光道灌まつり」
10月14・15日(土・日)

15日の「道灌公鷹狩り行列」の道灌役は、太田道灌の子孫である俳優の北村有起哉さんが出陣されます!大河ドラマではお馴染み、映画「関ヶ原」でも井伊直政を演じてらっしゃいましたね!若き道灌、楽しみですよね~。私は休めませんがannoyhttp://www.city.isehara.kanagawa.jp/dokan-fes/


▲ 第18回「三増合戦まつり」
10月8日(日)

▲ 「もののふの里 葛山城址まつり
10月29日(日)


ふぅ~。
前回のブログ記事とあわせても全て紹介しきれません。また、あまりに催しが多く、家族・友人・仕事を犠牲にしても行ききれません。それどころが、情報を把握しきれませんよね~。

まあ、私なぞは、11-12月の土日なんてお休みできませんので、ほとんど参加できませんが。皆さんどーぞ行ってくだされませ。いいわねえ。


「2017 秋冬の気になる歴史企画展・歴史講演会など」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/2017-2544.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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今川家の当初の菩提寺 「萬昌院」

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~萬昌院功雲寺。戦後(昭和の)、萬昌院と功雲寺が一緒になった。~


中野(落合)に 萬昌院という大きなお寺があります。先にも書きました杉並(上井草)にある「観泉寺」に移る前の、今川家の当初の墓所です。

氏真の孫の代に「観泉寺」が今川家の菩提寺とされ、氏真らのお墓もそちらへまとめられたそうです。観泉寺へは分骨なのか全て移したのかは存じませんが、萬昌院のお墓はそのまま残されています。


早河殿のお墓は「無縫塔」と呼ばれる卵型のものでした。お坊さんのお墓にされるタイプです。

観泉寺に移されると、もう宝篋印塔になります。


萬昌院の開基は今川氏真の弟、一月長得(いちげつちょうとく)。開山当時はもっと江戸城近くにありましたが、例によって、火事や諸々の事情で大正の頃に今の場所に移ったそうです。

一月長得のお墓ももちろんここにありました。


萬昌院さんは非常に警備の厳しい御寺で、山門には警備員さんが立っています。お寺の中に入る時には記帳をしてリボンをもらいます。

写真は、墓所、境内、山門さえもNG。門柱だけ許可を取って撮りました(ジーーっeyeと、カメラの角度を監視されながら)。


こちらの墓所も歴史上の有名な人物のお墓が多く、吉良上野介殿のお墓もありました。立派でした~。

上野介殿が松の廊下で内匠頭に切られた時には傷の手当てをし、赤穂浪士たちに討ち捕られた時には、首と胴の縫合をしたという御典医栗崎道有のお墓もありました。同じお寺なのだね。


このところ、都心のお墓を色々と廻っております。足利はるる(晴氏)に嫁いだ、氏綱のむすめの足跡を辿っていたらアチコチ気になるお寺が出てきてしまったのです。

都心でも大きなお寺はたくさんあるのですねえ。ちょっと驚きました。それらのお寺のことも追々書いていきたいと思います。


「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉

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~スーッと扉が開くと、そこには華麗な世界が!~

いや~、すっっっばらしかったです。写真だけでも歴友の皆さまにと一生懸命撮りましたが、スマホのチャッチイ写真では十分お伝えできないのが残念。


wine通常は非公開

英勝院さまが太田家にゆかりということで、現ご当主の太田資暁さんに連れられて、「道灌びいき」の会員が拝見出来ることになりました。

同じく非公開とはいえ山門の上部はNPO鎌倉ガイドのツアーで昇らせてもらえたことがありますが、祠堂の扉はまず!開けてはいただません。どころか、覆堂の中にさえ入れてはもらえません。(外からは伺えます。)


Img20170930_211355
~軒下には彩色も鮮やかな斗栱や雲文をみせる軒支輪がめぐる(内海氏の資料より抜粋)~


wine英勝寺と英勝院

英勝寺の開基は英勝院さま。英勝寺は、鎌倉扇谷の太田道灌の屋敷跡に英勝院が建立しました。


英勝院とは言わずもがな家康の側室であり、戦に連れていくと必ず勝ったことから「勝」と名を改めさせられたことで知られていますよね。出自については、太田道灌の玄孫だとか、北条重臣の遠山景綱の曽孫だとか諸説あります。

いずれにしても、水戸藩初代当主で水戸黄門の父である徳川頼房の養母として、水戸藩では特別&格別大切にされた女人です。頼房は、母が側室「お万の方」、養母も側室「お勝の方・英勝院」。どちらも坂東の女人です。どうしても二人が脳内で混ざってしまいますが、この祠堂を見ると、「養母」という存在の大きさが分かります。


また、「英勝寺」は現在では鎌倉に唯一残った尼寺です。あれ?東慶寺は?と思ってしまいますが、東慶寺は明治にすでに尼寺ではなくなっています。

英勝寺は、以前はお寺自体が通常非公開でしたが今は一般公開されています(入れない箇所や入れない日もあります)。


Img20170930_211408
~祠堂の扉。お洒落な蝙蝠形格狭間。~


地元にお住まいの著名な鎌倉歴史研究家・内海恒雄氏の熱~い英勝寺ラブheart01のご説明を伺いながら、水戸藩が総力を尽くして造り上げた、垢ぬけた(by 内海先生)建築、仏像、彫刻、石造建造物の数々を拝見して回りました。

じっくり見たら英勝寺だけで一日が終わってしまいそうなそれらについては、ここに書きはじめたら長くなり過ぎてしまいますし、にわか知識の私が書いてもオコガマシイ。内海先生がお書きになったものや、他のHPなどでご覧くださいませ。詳しく書かれているHPがたくさんあります。


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~この紋どころが目に入らぬかーー!柱には太田桔梗。~


▲ 祠堂

祠堂がのる石垣は、江戸城と同じ造りの石垣だそうです。

黄門さまが建立した英勝院のお墓はお堂の背後に建っていて、堂内の須弥壇の後ろの「花灯枠」から、立派なお位牌を通して拝めるようになっています。(お墓だけなら、脇から側面をお参りできます。)


Img20170930_211344


お堂は小振りですが、典雅艶麗。屋根は宝形造、天井は格天井、正面と両側面には桟唐戸。東照宮と同じような極彩色ですが、小振りなためか、漂う気配のせいか、ずっと上品です(東照宮が下品というわけではにゃい)。

渋くて華麗な須弥壇の後ろの花灯枠からは外光が入り、それはまるで、背後の英勝院の巨大な墓塔から後光が差し込むが如くです。


ちょうど英勝寺を拝観したあとの、たまたまこのタイミングに、BS6「歴史鑑定」で水戸家のことをやっていました。「歴史捜査」は観るけれど「歴史鑑定」はあまり観ませんが、ちょっと観てみました。

初代の頃の水戸家はお金がなかったそうな。黄門様の時代に上向きになってきたようです。英勝寺の創建は寛永年間。資金繰り大丈夫だったのかな…な~んて、いらぬ心配をしてしまっただよ。


そして、またまたちょうどこのタイミングに、BSで「水戸黄門」が始まったので、つい観てしまいました。黄門様がラーメンを作っていました!ラーメンを最初に食べたのは黄門様ではなかったという話もありますね。諸説あり…ですな。


「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「家康の側室達ゆかりの、小田原北条の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-9dfe.html
「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html


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出ましたね! 「享徳の乱」 峰岸純夫著

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~『享徳の乱 中世東国の「三十年戦争」』 講談社メチエ 2017.10.10 ~


ついに出ましたねsign01
坂東の戦国ファン待望の、「享徳の乱」についての峰岸先生の本。

『応仁の乱』 『観応の擾乱』中公新書)とあわせての、室町トリロジーですね。(『応仁の乱』は読んでおりませんが。)


『享徳の乱』の表紙は月岡芳年ですか。だ~い好きです!え?表紙が錦絵?と思われる方もいらっしゃると思います。私も実はそうでしたsweat01

本にも書かれていますが、初めは先生も、「明治になってからの錦絵を掲げることはいかがかとも思った…」そうです。

ところが編集者の方が、「江戸時代の人の方が、フィクションを通じてではあれ、関東の大乱について現代人よりよく知っていたのでしょう…芳流閣は架空の建物とはいえ、成氏の居所として「古河」が描かれている…享徳の乱を周知させたいと願うなら、八犬士や絵師の力でもなんでも借りて、華やかなカバーにしようじゃありませんか…(抜粋)」と言われ、思いなおされたそうです。


確かにシゲッチ(成氏)の肖像は無いし、関係者たちや関連史跡の肖像や写真は、今まで出版されている書籍の表紙に使い尽くされていますものねえ。しかもチト地味…ゴニョ。

実際、この本は本棚に入れてしまうのがもったいない表紙で、正面を向けて飾っています。


狂言回しは新田岩松との、長文の「はじめに」を読み終わったばかりのところですが、その末尾にはこう書かれています。

いささか前置きが長くなったようだ。それでは読者を十五世紀の関東にご案内しよう。

わお!
ワクワクドキドキ happy02


「講演会 「享徳の乱における分倍河原合戦」 峰岸純夫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-832a.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔

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by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代・北条氏綱の息女たち、足利晴氏室】


Photo
~伝・四代古河公方 足利晴氏の墓~


関宿城(跡)から馬で、いや、車で5分ぐらいのところに「宗英寺」というお寺があります。慶長年間に、家康の弟である初代関宿城主松平康元により建立された由緒あるお寺で、康元のお墓もあります。


宗英寺に四代古河公方、足利はるる こと足利晴氏のお墓と伝わっている五輪塔があると聞き、一度拝んでみたいと思っていました。以前、逆井城などを周った時に関宿城博物館までは行ったのですが、当時は足利公方に興味がなかったので素通りしてしまいました。

立派な山門をくぐり、説明板をじっくりと読んだあとは、スタスタスタスタと墓所へ。墓所をグルグルしましたが…ありませんのう、はるるのお墓。お寺の方に伺いましたら、「晴氏のお墓と伝わっているもの」は、山門を入ってすぐのところにあると。墓所にあるとばかり思って脇目もふらずに歩いておりましたよ。


戻ってみると…

どひゃーー coldsweats02思わず後ずさり。

凄い石塔がそこにありました。写真では伝わらないかもしれませんが、石塔はトーテムポールのように高いです。優に2m位はあるのではないでしょうか。後ずさりしないと、全容が見られません(ちとオーバー?)。五輪塔と呼ばれているようですが、五輪塔ではないのですてね。なんと申したらいいのか…石塔、です。


石塔は、崩れていた(崩れそうだった?)のを、お団子のように重ね合わせて接着されています。特に「晴氏墓」などの表示はなく、忽然と現われたようにそこに建っています。


この石塔がなにゆえ、はるる(晴氏)のお墓だと伝わっているのでしょうか。

それは、塔の、上から6個目の四角い石に、はるるの法名である「永僊(仙)院殿」と刻まれているのが読めるからです。

Photo_4
~文字はけっこうハッキリしている。新しく刻んだのか、はたまた地中に埋まったりしていたのか?~


▲ 天文7年。
古河公方足利晴氏と、伯父である小弓公方足利義明が松戸台あたりで合戦に及んだ。北条氏綱・氏康父子は、自身の軍隊を持たない公方晴氏の名代として参戦。一方、義明を擁立したのは安房の里見氏。

第一次国府台の戦いである。▲


001_2
~里見勢らに見限られ(?)た小弓公方足利義明が、単騎北条軍に突入し討死した相模台城跡(松戸駅前聖徳大学内)。~


wine芳春院殿

合戦に勝利した北条氏綱が晴氏の後室として嫁がせたのが、娘の芳春院殿です。

大河ドラマにからめて、氏康の娘の早川殿(今川氏真室)を先に書いてしまいましたが、再び氏綱の娘に戻ります。


芳春院は、その容色を楊貴妃にも例えられ、公方に嫁いでからは、実家と公方家の間を取り持つ重要ミッションを担い、鎌倉での息子義氏の公方就任式典では共にパレードに連なり、「日本王天下光」の朱印を使い、実家の全面バックアップを受け当時の東日本の女人では最高の権勢を誇りました。

小田原を出てから、葛西・古河・栗橋・関宿などなど子息の義氏と共に居城を移し(たぶん)、夫君の はるる とはほとんど別居生活だったとは思いますが(たぶん)、華やかで、頭も良く、女王のような威厳を感じさせる、そして勝気な女性だったのでしょうねえ(北条の女性は皆強い wobbly)。


芳春院については、以前、古河などで妄想を広げたブログ記事をたくさん書きました。一部を文末へ添付いたしましたので、あわせてご覧くださると嬉しいです。


horse古河公方 足利晴氏

いつも書いていて恐縮ですが、古河(鎌倉)公方の名前を覚えるためにニックネームを付けて呼んでいます。初代シゲッチ(成氏)→二代マー君(政氏)→三代タカピー(高基)→四代はるる(晴氏)→五代よっしー(義氏)…。それでも、マー君とタカピーが時々テンコシャンコになるsweat01


四代はるる は、北条氏綱から娘を送り込まれ、先妻との子は廃嫡とされ、いったんは北条と和解しましたが、廃嫡された息子藤氏と共に北条に叛旗を翻したものの敗北。波多野(秦野)に幽閉され、その後野田にお預けとなり、そこで亡くなりました(野田家文書・鑁阿寺文書)。


古河には、はるるの法名の「永仙院」というお寺があります。今は廃寺となっているので正確にはお寺が「ありました」ですが、永仙院は、それ以前は「乾享院」という、シゲッチ開基のお寺でした。「乾享院」とはシゲッチの法名です。その後、はるるの菩提寺となり、法名である「永仙院」となったそうです。

(ん?ということは…永仙院=乾享院にシゲッチのお墓はあったのでしょうか?現シゲッチのお墓は後に造られた供養墓です。)


永仙院跡には墓地が残っています。しかし、そこに、はるるのお墓とされているものは見つけられませんでした。あるはずですよねえ。廃寺になってしまっているので、もう分からないのでしょうかねえ。

同じく古河の「一向寺」というお寺が、永仙院の遺宝を引き継いでいるそうなので、一向寺さんに行ったら何か分かったのでしょうか。古河に行った時は、時間がなくて寄れませんでした。


horse謎の石塔

さて、話を関宿宗英寺の「石塔」に戻します。

野田で亡くなった はるる のお墓(法名が刻まれた石)がなぜ関宿にあるのでしょうか?


お寺の方、関宿城博物館の学芸員さん、「道灌びいき」の会員である古河の郷土史会の方々に伺いましたが、本当に分からないそうです。元々畑の中にあったものをここにおさめたと聞いているとのこと。

関宿城博物館の展望室から悠々と流れる利根川や江戸川を眺め、古河の方向を見つめながらながら妄想してみました。


▲ 元々は野田の栗橋城の近くにあったが、その後栗橋城に入った我らが北条氏照どのが配下の者に「撤去せい」と命じ、そこに一緒にあった他のお墓などと一緒に配下の者が少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

または、栗橋が北条に従属したのちも墓はそこにあったが、天正18年、北条が滅びたあとに入った小笠原さんちの誰かが、そのあたりにあったお墓類の使えそうな石だけ残し、不必要な石を少し離れた関宿の畑の中へ、テイッ!と捨てた。

そして…

▲ その後に関宿に入った松平さんが、畑の中に散乱している墓石の中に「永仙院」と刻まれたものを見つけ、「あまりに哀れじゃ…」と、配下の者に命じ整えさせた。が、配下の者は積み重ね方をよく知らず、そのへんの石を適当に積んだ。


な~んてね。
実のところはお墓は古河や久喜にあったのでしょうが、野田さんか誰かが、こちらに供養塔として築いたのかもしれませんね。もしくは、もう少し後に梁田さんが建てた供養塔かもしれないですねえ。

時が流れそれらは放置され、崩れ散乱していたのを土地の人達が積み上げ、それを松平さんかお寺の人が寺内におさめた…というところだと思います。


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~丸に二つ引きの家紋が端然とそびえる久喜にある臨済宗「甘棠院(かんとういん)」。晴氏の祖父、足利政氏の屋敷・菩提寺である。~


永禄3年、はるるは激動の人生を終え、葬儀は久喜「甘棠院」にて営まれました。芳春院はこの時に落髪します(喜連川判鑑)。

北条にその立場を追われ敵対していた夫君とはほとんど一緒にいなかったと思われる芳春院ですが、晴氏死去の翌年この世を去りました。まだ40代前半だったと思います。栄華を極めた方にしては、まだお若いですねえ。


晴氏と芳春院がこの世を去り、芳春院の息子義氏が公方になると、足利公方と北条の関係はあらたな時代を迎えることとなります。義氏には氏康の娘が嫁ぎますので、古河公方のことはその時にまた。


pen謎の石塔について加筆。

もう少し資料を読んでみましたら、芳春院の息子の公方ヨッシーは、父母が死去した永禄3-4年あたり、野田と共に関宿に籠城していました。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が籠城中の野田さんへ弔意を表した書状を出しています。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性もありますよね。


もしかしたら、芳春院が、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)をその時そこに建てたということも考えられますよねえ。そして翌年、息子の公方ヨッシーが母 芳春院のお墓を父はるる のお墓に並べて建てたとか…。

ヨッシーが梁田と和睦して関宿を出たのは、7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


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~甘棠院の周りを取り巻く堀と土塁。本堂へは近づけない。~


cherryblossom  芳春院を書いた記事の一部です
「古河公方の古河を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html
「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


wine今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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「吉祥寺」 古河公方室、太田道灌、遠山氏ゆかりの名刹

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by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち⑤
【二代・北条氏綱の息女たち、足利晴氏室 ~ 続編】


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~現在は本駒込にある「吉祥寺」~


前回に続けまして北条氏綱の娘、四代古河公方足利晴氏室の芳春院のことです。


horseまずは、関宿に残る晴氏のお墓の妄想の続き

前回のブログ記事で、関宿に残る、四代古河公方足利晴氏のお墓と伝わる「謎の石塔」の、晴氏の法名が刻まれた墓石はなんなのだろうと色々妄想いたしました。

その後もう少し資料(史料ではなく資料sweat01)を読んでみました。


芳春院&はるる(晴氏)の息子である五代古河公方ヨッシー(義氏) は、父母が死去した永禄3-4年頃、野田と共に関宿に籠城していたのですね。

永禄4年7月に芳春院が亡くなった時、芳春院の兄北条氏康が、籠城中の野田さんへ弔意を表す書状を出しているのです。ということは、芳春院は息子と共に関宿にいて、そこで没した可能性があります


芳春院がその時に、前年亡くなった夫のお墓(供養塔)を関宿に建てたということも考えられます → 翌年に芳春院が亡くなると、息子のヨッシーが母芳春院のお墓を父はるる のお墓に並べて建て → 時が過ぎ二つのお墓(供養塔)は崩れ、散らばり → その後村人たちが一人分のお墓だと思って積み上げた…
なんて?

公方義氏が梁田と和睦して関宿を出たのは、芳春院がこの世を去った7月。たぶん、母上の弔いを済ませてからのことなのでしょう。


horse芳春院殿さまの、江戸の位牌寺だった 「吉祥寺」

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~かつて、駒沢大学の前身である栴檀林という学問所だったことに由来する御干菓子「栴檀」。黒糖の味が美味しい。~


小田原北条の重鎮中の重鎮、遠山綱景の法名は「吉祥寺殿」なのですってね。知りませんでした。


お寺の「吉祥寺」は、太田道灌の開基。中興開基が遠山綱景。そして、芳春院の江戸での位牌寺でもあります。江戸城代であった遠山さんが、長年に渡り古河公方家の取次だったことから、遠山中興開基の吉祥寺が芳春院の位牌寺になったようです。

長~い素敵な参道の両側が檀家さん方の墓所で、榎本武揚のお墓や、小田原出身の二宮尊徳の大きな供養碑もありました。


遠山綱景の法名が吉祥寺殿ということは、吉祥寺は綱景の菩提寺なのでしょうか?墓所をウロウロしましたが、とても広くて遠山家のお墓は分かりませんでした。そもそも、遠山家のお墓はこちらにあるのでしょうか?

いや、「吉祥寺」という寺名は、 太田道灌が「吉祥」の印を発見したことに因んで付けられたのでした。だから綱景の法名「吉祥寺殿」は偶然たまたま同じなだけで、菩提寺ではないかもしれません。ただ、吉祥寺の中興開基は綱景なのでまったく無関連とも思われません。

綱景は太田道灌に敬意を表し、お寺の名前を取って自らの法名を「吉祥寺殿」としたのでしょうか?

遠山綱景は、永禄7年の国府台で戦死しました。


(皆様ご存知のように、お寺の「吉祥寺」も当初は江戸城内にありましたが、現在は本駒込に移転しています。)


horse北条綱成の娘の菩提寺「祥雲寺」

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~屋根も境内も仏具も三鱗だらけ。~


吉祥寺をお参りしたあと、遠山家や江戸太田家ゆかりの気になるお寺があったことを思い出し行ってみました~train


上に書いた遠山綱景の息子、遠山隼人佑景久に嫁いだ北条綱成の娘浄光院殿の菩提寺「瑞宝山 祥雲寺」です。広尾にある、江戸時代 の狭山北条家の菩提寺も「祥雲寺」ですが、偶然同じ名前のようです。

永禄7年、祥雲寺は遠山家によって、吉祥寺と同じく江戸城内に開基されました。永禄7年とは、国府台で綱景や景久が戦死した年です。「瑞鳳山」とは、景久の法名からとっています。また、浄光院さまは、夫に先立ち永禄3年に亡くなっています。


ご本尊の薬師如来は天正17年に建立されたことが、胎内に書き残されています。天正17年…もう臨戦体制の頃ですが、遠山家の誰かが病気だったりしたのですかねえ…。

こちらも大きなお寺です。薬師如来は小ぶりですが、同じく小さいけれど荘厳なお厨子の中で、深い光を放っていました。ちょっとゾクッと した。


祥雲寺はその後、江戸に徳川が入ったり火災があったりして、現在の池袋に移転したようです。

お寺の紋は遠山家の紋ではなく、浄光院様の実家の三鱗なのですね。そういうものなのですか?本堂も▲仏具も▲境内も▲三鱗だらけでした。


芳春院の足跡を辿って、古河公方の取次だった遠山さんに行き当ったのですが、遠山家がいかに江戸で勢力を持っていたのかを実感するお寺巡りでした。


horse「狩野元信」展で北条氏綱!(~11月5日まで)

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~サントリー美術館のミュージアムショップで買った『酒伝童子絵巻』のカード~


芳春院さまとも遠山さんとも全然関係ありませんが、サントリー美術館で開催中の「狩野元信」展を観に行きました。

目当てはもちろん、我らが北条氏綱が企画・発注した『酒伝童子絵巻』です。大永二年作。詞書は、近衛尚道(北条氏綱後室の父)・定法寺公助・青蓮院尊鎮。


展示には氏綱が発注したことだけは書いてありましたが、その後、この絵巻は代々の北条当主が保持し、小田原が滅びた後は五代氏直の室であった家康の娘の督姫が池田家へ再婚する時に持参しました。

あら~~coldsweats01


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)

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by マリコ・ポーロ


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~島田宿を歩き大井川に突き当たった河畔に建つ~


wine早川殿 朱印状

♪ 唄は茶っ切り節~ 男はぁぁ 次郎長~

毎度古くてすみませんと、静岡の茶どころ島田の宿、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」へ行った一番の目的は、今川氏真に嫁いだ北条氏康の娘、早川殿の ナマ朱印を見ることです。


ただそれだけのために島田まで行くかね。我ながらビックリですが、今のところ日本でただひとつしかないのです。

今まででしたら行かなかったと思いますが、書き続けている「北条五代の娘たち」で早川殿の足跡を辿ったばかりでパッション Max。どうしても見たい!お昼ご飯代を削ってでも見たい!エイヤッ!bullettrainと行ってしまいました。


堪能しました~ heart01早川殿の朱印 「芳菊」 。早川殿の朱印は「幸菊」と書かれている本が多いので、私もそう思ってきましたが、「芳菊」なんですね。

一回見て、会場を一回りしてまた戻って見ました。穴のあくほど見ちゃった。もし穴が開いていたら、私がジーーーーッと見たからです。なんてね。


朱印状の内容は、寿桂尼が所領を安堵していたお寺に、寿桂尼が亡くなったあとその権限を受け継いだ早川殿が、寿桂尼と同じく所領を認めたものでした。

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~図録を撮ったのでボケボケ。現物はかなりハッキリクッキリと鮮やかだった。~


朱印状が出されたのは永禄11年11月。その1ヶ月後、今川は武田信玄によって駿府を追われることになります。


そして、
今回の企画展では、花倉(花蔵)の乱について 2つ 新しいことを知りました。そのうちの1つは、本当に驚きました。


wine「花倉」の乱?「花蔵」の乱?

皆さんはとうにご存知かもしれませんが、今、「花倉の乱」ではなく、「花蔵の乱」と呼ぶ(書く)方が主流だそうですね。


「花倉」とは合戦があった場所。はなくらの乱は、以前は恵探が福島と最終的に花倉城に入り起こした内乱のように考えられていたので「花倉の乱」と言われていました。私もそう認識していました。

しかし今では、はなくらの乱は、花倉城だけでのことではなく、今川家を二分し北条や武田など周辺の大名も巻き込んだ大きな政争だととらえられ、恵探の異名「花蔵殿」から「花蔵の乱」と呼ばれているそうです。


知らんかった~。ブログなどに書く時に、「花倉」「花蔵」どちらの字を使うかいつも悩んでいましたよ。へえ~~~。


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~図録充実。ワテの2つの知らなかったことも記載。キーホルダーは、「反撃!今川さん」。悔し涙の義元殿だとか。静岡市非公式キャラクターだそうだが人気者で活躍している。~


そしてもうひとつは、もっの凄く驚いたこと。

wine寿桂尼は、「花蔵ト同心シテ」いた by 高白斎記

ドびっくり~~


なぜ同心したのか?

寿桂尼も恵探も共に北条と繋がりが深かったことと、栴岳承芳(義元)と組み今川家中で発言力を増してきた雪斎への寿桂尼の対抗意識から…ですと。恵探が北条と懇意だったのも知りませんでした。


よもや寿桂尼が実子の義元を抹殺するまでのことではないとは思いますが、ほなら、北条氏綱は義元に支援を要請されたのではなく、やっぱり氏綱が「今が好機!」と、勝手に河東に乱入したのだったりして。

いや、それより、氏綱に要請したのは義元ではなくと恵探と組んだ寿桂尼だったりして。すると、乱後に義元が怒って、雪斎ラインで武田と同盟したのも納得だわ~なんて思ってしまいました。


ホンマかいなと思って、家に戻ってからチト調べてみました。それは有光氏・前田氏・大塚氏らのご研究のようです。しかし、「同心シテ」 をどう解釈するかはそれぞれ「味方をする」「一味して」などなど諸先生方色々。小和田先生は、「妥協して」ととらえてらっしゃるようです。

いずれにしても、これは他国の高白斎が見聞きしたことを書いたもの。聞き間違いや情報伝達の不十分さもあると思われるから、そのまま理解してよいかどうかも問題とありました。


また、乱の前、寿桂尼が恵探のもとを訪れる時に「住書を持参した」とあるそうで、それは、この乱の妥協案が書かれたものではないかと小和田先生はおっさってらっさるそうです。住書 には何が書かれてあったのでしょう。寿桂尼は息子義元を助けようとしたのでしょうか…。

また、寿桂尼が恵探に住書を持っていったことを、なんで駒井が知ったのでしょうね。


そんな論争があることなんて全然知りませんでした。『今川氏研究の最前線』にも書いてなかったですよぉ。

様々な論文や本を全て読んで常に最新の研究を知るということは私には無理ですが、諸説ありということを知ることができ、また、早川殿のナマ朱印も堪能することが出来て今回の企画展に、エイヤッと行ってよかったです。神様、仏様、稲尾様(これまた古い)、ありがとう。


「寿桂尼と今川氏展」は、11月26日(日)まで。

新発見・初公開だという、氏真さんが6首の和歌を書いたものも出ていました。書かれたのは天正5年頃。氏真が諏訪原城にいた頃です。注)途中一部展示替えがあるようです。


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~博物館がある島田宿。この日は雨。江戸時代だったら川止でごった返していたでしょう。平成の雨の日は人も少なく、しっとりといい感じ。~


horseこれも行きたい
「馬をめでる武将たち」 馬の博物館

新発見の「伝・北条氏康像」「伝・今川氏真像」も出ているそうです。またまた講演会も魅力的。講演会は行けないですが…。HP→http://www.bajibunka.jrao.ne.jp/uma/event/event_20171020.html


「駿府 「臨済寺」の特別公開」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-2e50.html
「今川時代の駿府~吐月峰 柴屋寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7dec.html
「駿府で暮らした早雲の姉と北条氏規」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-5a23.html

「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原の久翁寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

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「馬をめでる武将たち展」 馬の博物館(2017年)

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開催期間: 12/3(日) まで
博物館への行き方: 京浜東北線の根岸駅からバスですぐ。♪山手のドルフィンは~ の近く。


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断捨離中ゆえ図録は我慢。展示目録はなかったので、気になるところだけメモを取りました。


horse伝北条氏康像

写真で見ると、困惑しているような顔に見えるかもしれませんが、実際にナマで見るとそんなことはなく、とっても若く、ポッテリした唇が印象的な顔です。

展示の説明には…

▲ 氏康像と同じ頃に描かれたもの。
▲ 直垂は、氏康像は鶴亀だが、この像はそれに松が加えられている。また、小袖も華やか。
▲ 元服はしているが非常に若い。

もしかしたら氏康が直垂を下げ渡したとすると、それは、息子だろう。

とすると、それは、氏邦・氏規・景虎と比定できるのではないか。

と、ありました。


疑問1)
直垂は、絵で見る限りは氏康像と色も違うし(変色しているかもしれないが)、鶴の向きも違うので、別誂えか、絵の上でだけこの柄にしたかもしれないとも私は思いました。

疑問2)
では、なぜ、氏親・氏政・氏照ではなく、邦・規・景と比定しているのかしら?親・政・照だと、ちょっと年代が上になってしまうからかな?

疑問3)
それから、「個人蔵」。
どこから出てきたのかも、像主を判断する材料となりますよね。どこなのだろう…。


と話したら、北条歴友さんがから矢文をいただきました。ありがとうございます。

「個人蔵」は青梅の方で、この肖像画は作年青梅市郷土博物館で催された企画展「戦国時代の青梅~三田氏の滅亡と北条氏~」に出ていたそうです。

青梅ですか…。よもや、源三(氏照)どのではないですよね?青梅をゲットした頃はもう少し大人ですものね?


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horse北条時長像

時長って誰?鎌倉執権ですか?

幻庵殿の長子で、今、「北条三郎」と呼ばれている方がいますよね。その方のことらしいです。「時長」というのですか。初めて知りました。へえ~~。

こちらは、北条三郎殿の菩提寺である小田原(風祭)の「宝泉寺」蔵です。宝泉寺とは、北条三郎殿の法名です。


horse

・黒漆塗六十二間筋兜(天文4年)
伊達家ゆかりのものらしい
・鉄錆地四十八間筋兜の鉢のみ
上杉朝宗の頃のものらしい
・吹返しに二つ引両紋の六十二間小星兜(永禄12年)
・ 秀吉の馬廻衆のものだという兜

もう一頭あったが忘れてしまったsweat01


horse伊達政宗がボーイフレンドの只野作十郎くんに出したお手紙

病気の作十郎を心配。
今日は馬を見る予定だったが変更して鷹狩りをした。夜語りの相手がいないので家康がくれた手紙を読んでいるのだよ…などと、とりとめもないことを書き連ねたお手紙。


腐っているのでbleahこういうお手紙が気になってしまう。

手燭の元でひとり、前に貰った家康の手紙なんかを読んでいる所在なげな老齢(52才)の政宗の姿がチョットいいな~と思ってしまって。


なんならワテがお話相手になりましょうか?ペラペラ ベチャクチャ。
「え~い、やかましいオナゴじゃ!そういう意味ではない!」

え?どーゆー意味?

バサッ(←お手討ちの音)


horseその他、初公開の上杉朝宗や、秀吉や官兵衛などの書状。今川氏真が京都にいた頃の肖像や朱印状などなど。

200円でこれだけ楽しめるのじゃ!


23日の講演会も面白そうです。特に、長塚氏による「朝倉右京進ー鞍を作る戦国武士の周辺」が興味津々。朝倉右京が講演の内容になるなんて珍しいです。

行けないですが…。


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~懐かしのドルフィン~

海を見ながら歴史話に盛り上がる午後。noteワイングラスの なぁかぁを~ 貨物船がとぉおぉる~。あ、ソーダ水か。ソーダ水の発泡の中では景色は見えない…と当時話したっけ。


horseこれも行きたいが、そんなにどこもかしこも行けにゃい

特別展「戦国時代の千葉氏ー古文書が語る争乱ー」
千葉市立郷土博物館
HP→
https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/kyodo/tenji.html#tokubetu


過去の馬の博物館での企画展のブログ記事です。

「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館(2011年)             
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html
「戦国の城と馬」 馬の博物館(2010年) 
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-cfc6.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?

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~レジュメ~

一昨日は、小田原城で開催中の企画展「小田原北条氏の絆~小田原城とその支城」の関連講演会、氏政と氏照を拝聴してまいりました。

「北条氏政と小田原城」が佐々木健策氏、「北条氏照と八王子城と」は齋藤慎一氏でした。定かではなかった氏政さんの生年が天文8年と分かったそうで、どうして分かったのか知りたいと思いました。


本題。
少し前のブログ記事に、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」のことを書きました。その時、花蔵の乱で寿桂尼は義元ではなく玄広恵探を擁立しようとしていたという展示を見て、皆さんはすでにご存知のことだったかもしれませんが、私は驚いてしまいました。


その根拠として、

① 企画展の説明には、高白斎記に「(寿桂尼は)花蔵ト同心シテ」とあることだとありました。高白斎とは、信玄殿の駒井高白斎のことですね。


チラッと調べたところ、

② ‐寿桂尼は福嶋のところへ何かしらの「住書(注書)」を持って行った(←このことがどこに書かれていたのかは、この時点では調べきれなかった)。
   ‐ 寿桂尼は夫君の氏親の代から、恵探の母(氏親様の側室)の実家の福嶋と昵懇だった。その関係は、寿桂尼が隠居しても続いている。

いうことは分かりました。


北条以外にあまり興味の巾を広げないようにしているため、寿桂尼が恵探側だったということは初耳で本当にビックリ coldsweats02。広げないようにしているのに、もう少し詳しいことが知りたくて…買ってしまいました~。

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~有光友學 著。吉川弘文館。葛山を調べるのにチョコチョコ図書館で読んでいたが、図書館通いでは間に合わなくなってしまった(キーホルダーは今川さん)。~


ご本の発刊は2013年ですが、参考にさせていただいたのは、中におさめられている 1992年の講演のお話です。


①の「同心シテ」の解釈は諸先生方によって様々です。事件のザックリした流れと合わせて以下。


(天文5年)
3月17日、当主氏輝とその弟彦五郎が同日に急死。

4月27日、福嶋、恵探を擁立し挙兵。

5月24日、高白斎の日記には以下のように書かれているそうです。ここで、寿桂尼が福嶋のところへ行き「同心シテ」が出てきます。

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

そして、6月14日、花蔵殿(恵探)は藤枝の普門寺で自害することになります。

(天文6年)
2月10日、義元と武田信虎の娘が結婚

2月26日、北条氏綱が「駿州出陣」

という事態になってゆきます。


② の「住書(注書)」とは、書物(カキモノ)、書類のことです。かなり分かりました。


「住書(柱書)」のことが書かれていたのは、義元が岡部左京進に出した自筆の感状だそうです。

何に対しての感状かというと、花蔵に取られた「住書」を取り返したことに対してだそうです。
住書花蔵ヘ被取之処、親綱(岡部)取返付畢


そして岡部殿は、賜った感状にメモを書き足しています。

乱の前に、大上様(寿桂尼)が住書(注書)を持って花蔵殿へ行った。(岡部殿は)花蔵城(葉梨城)を落とし、住書を取り返した、と。

大上様御注書お取、花蔵被為参候処…うんぬん」


へえ~~ wobbly。乱の前ですか~。感状が出たということは、よほど大事な書き付けだったのですね。その住書にはいったい何が書かれていたのでしょう。


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~寿桂尼の隠居所で菩提寺となった龍雲寺。静岡駅からバスで10分位。~


有光先生の本には、寿桂尼の発給文書のことも書かれていました。

同じく息子である先代の氏輝の時は、氏輝が一人前になるまでは寿桂尼が代わって発給していることが多かったのですが、義元の代になるとそれが全くないそうです。義元はまだ 18‐19才で、印判も僧侶時代の黒印「承芳」を使っている頃だったにもかかわらずです。

つまり、乱以降、寿桂尼はかなり遠ざけられたのではないかというのです。


しょえ~~ bearing

なんだか、色々と複雑そう。


歴史小説や雑誌を読んだり、ネットなどで検索すると、今でもほとんど「寿桂尼は実の息子の義元を当主にしたかったので、雪斎と組んで福嶋と恵探を滅ぼした」と書かれていますよねえ。時代劇だって、義元の傍には必ず雪斎と寿桂尼がいるじゃあないですか。

前のブログにも書きましたが、島田市博物館にいかなければ私は諸説あることを知らず、これからも「息子を当主にしようとした寿桂尼」を話していたと思います。花蔵に限らず、こういうことって他にもたくさんあるのだろうな~。


これで完全に決まり!という時点ではまだないとは思いますが、これからはドラマや映画の絵面も少し変わってくるのでしょうかねえ。


「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html


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火急!見学会「早川口二重戸張」があります▲小田原

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スーパー連続講演会の途中で、小田原がまたまた大変です!今度は総構、早川口二重戸張(ふたえとばり)の発掘調査見学会です。

日時: 2017年12月2日(土)
9:30~12:00

見学自由、小雨決行
karaoke 10時、11時に文化財課の説明あり

HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/property/shisekinoseibi/ki-20170544.html


以前、小田原の二重戸張(ふたえとばり)については驚いたことがありました(ブログ記事↓下記に添付)。それがどうなのか、今回の見学会で少し分かるかな。

2
~早川口~


pen余談

今更私などが言わずもがなですが、小田原の総構や古郭周辺の名称は、便宜上後世に付けられたものが多いです。「二重戸張」もそうですし、血湧き肉躍り数年に渡って当ブログに書きまくった「御用米曲輪」や、妄想の果ての「御前曲輪」、そのあとチビット萌えた「百姓曲輪」などもそうです。


2_2
~山の神堀切~


先日、某北条支城で催された某講演会で、「百姓曲輪」は「山ノ神台」にあるとのお話しを聞きました。

「山ノ神台」の名前も、かつて(江戸時代か?)山神祠があったため後世に名付けられたものです。まったく詳しくありませんが、山神祠は、林業・石工・漁業など山や自然相手の職業に携わる方達が祀ったものでもあるようです。また、これも行ったことがなくて恐縮ですが、足柄城にも「山の神曲輪」がありますよね。


小田原の「山ノ神台」は百姓曲輪の近くではありますが、「百姓曲輪」は、どちらかといえば荻窪口に続いています。

腑に落ちなかったので、小田原の専門家の方に伺ったところ、やはり、「百姓曲輪」は荻窪口の虎口を構成する一部で、「山ノ神台」とは違うとのことでした。とはいえ、「荻窪口」の全体像もまだよく分かっていないようです。


「小田原城総構の「二重戸張」の衝撃」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html

「小田原城「御前曲輪」で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html

「調査中の御前曲輪南堀(毒榎平北堀)を見てきました▲小田原」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-a209.html

「障子堀が出てきた「百姓曲輪」を偵察させていただいた」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1a58.html
「2 ▲小田原「百姓曲輪」の虎口」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-c3eb.html
「3 ▲総構の「荻窪口」と「百姓曲輪」の関係」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-0e40.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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小田原総構「早川口」の発掘調査を見学しました

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~トレンチは堀底(通路)部分に8カ所。ほとんどが堀(通路)を横方向に掘られていました。こんなにアチコチ掘れるなら、いっそ全面掘っちまえぃ!と思いました。そうもいかないのかにゃ。テヘヘ bleah。~


早川口の発掘調査は初めてだそうです。

江戸時代は水田だったし、明治には政治家(の側近)の流水庭園だったので、どこまで分かるのか?担当者の方たち大変だろうな、いや、専門家は一目見ればいつの時代かがすぐに分かるのかな…などと思いながら、見学に行ってきました。


目的: 地下遺構の状況を確認するため

結果: 調査は継続中。12月いっぱいで埋め戻す。
・現況地形と戦国時代の地形が大きく異なることが明らかになった。
・山側の総構と違い、低地部ならではの石の多用など、小田原城の低地部総構の土塁形成方法を解明するための手がかりを得られた。


検討が必要なこと:
・部分的な調査であるため、更なる土塁の構造についての調査。
・確認された砂利敷き面が虎口内の通路なのか?

などなど、ご説明と資料から書きました。合ってますかね。


Img20171206_000219
~ピンクの矢印 → が早川口の二重戸張です。(小田原市教育委員会、現代図に複合させた城下町・宿場町おだわらの町名・地名図より)~


以下、戦国時代に関係することで気になったことだけ自分の備忘録として書きますが、こんな書き方ではわからないですかね~。


Img20171202_143235_2
▲ 虎口に近い部分。外側の土塁上から写真を撮りました。

・ ピンク矢印土塁
土塁の内側部分とはいえ、元は土塁ももっと高かっただろうに、それにしては随分と傾斜が緩いと感じました。

グリーンで囲んだ部分
平石の列。 石の下は不明だそうです。

で囲んだ部分
硬化した砂利敷の列。「虎口の通路かもしれない」と。う~ん、もう少し広い幅で見てみちゃいと思いました。

・ 土塁の際あたりに近現代の穴があり、レンガが出ていました。う~ん、難しそう。


Img20171202_143324
▲ 残された堀(通路)の、真ん中あたりです。外側の土塁の上から撮りました。

1枚目の写真もそうですが、私が撮った写真では高低差が上手く出せません。配布資料の写真がこちらです。

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資料の写真。向こうが土塁です。


・ ピンクの矢印 土塁

・ 上部の石ゴロゴロ
「石塁状に石を積んだ後、石と土によって土塁として整形されているようだが、石と土塁の関係はまだ不明」 「土や新しい石を取り除くと、石と石の隙間が広く、水が流れやすくなっている」と。

蓮上院も低地部ですが、土塁に石は使われていたのでしょうか?また、海沿いの台場の土塁も、石と土を使っていたのですよね?海沿いの大蓮寺あたりの住宅街の細道を歩いていると、少し名残(とも言えないぐらいの、名残らしきもの)が見えるところもあります。


Img20171202_232638
資料の写真より。

▲ 現代の早川口の入口から入ってすぐのあたりです。


・ ピンクの
「鉢形と同じような、土留めで使われている積み方」と。

狭い幅部分だったので、もうチョビット深いところが見たかったのと、江戸時代の水田層&近現代以降の砂片付け穴が一緒に出ていたのとで、私にはよく分かりませんでした。


水田だけならまだしも、そのあとの庭園がね~。でも庭園だったから早川口がかろうじて残ったというところもありますしねえ。

でも、早川口の土の下が見られる機会なんて無いと思っていたので、行って良かったです。この土塁の上に我らが北条氏照が腕組みして立ち、シッカと向こうを見据えていたかもしれない(病気になってなければ)…と思うと、ゾクゾクしました。


tvまったく余談

毎年BSで過去の大河ドラマを放映していますね。昨年は「武田信玄」で、今年は「風林火山」です。どちらも大好きで何度もオンデマンドやレンタルビデオなどで観ていますが、週に1度、テレビで一年かけて観るのも楽しみなものです。

今年の「風林火山」も残すところあと3回。「武田信玄」もそうでしたが、最終回に近づくにつれ、胸に切なく迫ってくるのは何故でしょう(←ワテだけ?)。なんにしても、最近の大河ドラマではないことです(←ワテはね)。

来年の再放送は何かな~?ワテのBest1、「太平記」をやってくれないかにゃ~。


「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原城総構の「二重戸張」の衝撃」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-d7fd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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「お城EXPO」の北条関係講演会 と 小田原城天守閣「絆展」

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今年もいよいよ押し迫ってまいりました…と、ついこのあいだ書いたばかりの気がします。どころか、そろそろ人生も押し迫ってくる年齢になってしまいますcrying。本当に あっ!という間ですね、人生は。

ま、いいけどさ think


horseお城EXPO

さて、第2回目となる「お城EXPO」の方も差し迫ってきましたね。今年も3日間にわたり様々な講演会が催されます。

昨年と違い、今年は歌舞伎の一幕見の如く、一講演ずつでチケットを買うことが出来ます(厳選プログラム指定券)。ただし、2つ以上の講演を聞くなら通し券(ワンデイ入場券)がお得。


北条ファンとしては、外せないのがこちら ですよね~。

日にち: 12月24日(日)
時  間: 15:30~16:30
演  目: 「北条氏の領国と城」
登壇者: 諏訪間順氏、黒田基樹氏

この日は、平山優氏による「武田氏の領国拡大と城郭」の講演もあるので、通し券がいいかもしれませんね。


私はクリスマスの超カキイレドキのためたぶん行けないと思いますが、皆さま是非行かれてみてくだされ。と、私が申すのもなんですが、旧八王子城守る会の方達が何人か城郭研究会にいらっしゃるので、チト宣伝させていただきました。

HP→http://www.shiroexpo.jp/#program


horse小田原北条氏の絆 ~小田原城とその支城~

12月24日(日)まで!


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~我が八王子城からも盛りだくさんの展示品。お隣は葛西城の青花器台。~


11月と12月の企画展関連の連続講演会を拝聴しましたが、企画展の方は先日のギャラリートークの時間にやっと見学できました。

講演会はもちろん面白かったのですが、企画展は興奮!北条の直営支城の遺物が本城に集結sign01でした。


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~鉢形、葛西、箕輪、津久井…などなど~


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~(左)以前ブログにコッテリ書いた檜原の甲冑の残欠も。(右)秩父重国所用五枚胴具足~


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~これも以前ブログに大騒ぎで書いた、幸田口の戦国期の堀から検出された漆塗の重藤弓。パネルの写真が、出てきた時の。展示は、保存処理がなされた本物。~

などなどなど。あと一週間しかないですが、間に合いましたかねえ?


それにしも、2回の講演会と早川口の発掘調査見学会で、この押し迫った11月&12月に3回も小田原へ行ってしまいましたよ。いいのか?自分 (^^; 。

そして、連続講演会の締めは、シンポジウムですね!申込は 12月20日(消印有効)までですよん。

日  時: 1月13日(土)9時45分~17時00分
資料代:500円
講 師 :小和田哲男、小野正敏、竹井英文、諏訪間順

HP→http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/odawaracastle/event/modern-odawara-castle-ikusa-copy-copy.html


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諸説あり?『北条氏康の妻 瑞渓院』 黒田基樹著

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~瑞渓院とも北条ともぜんぜん関係がない、伊達政宗のアロマランプ。鎌倉の「侍気分」さんで一目惚れ。実際はもっと橙色の光で、馬上一人の政宗が素敵。~


出版されたばかりの、『北条氏康の妻 瑞渓院』黒田基樹著 を読み始めました。

まず読んだのは、島田市博物館の「寿桂尼と今川氏展」で、寿桂尼が花蔵殿(恵探)側だったと初めて知って驚いてブログに書いてしまった、「花蔵の乱」のあたりです。くだんの、寿桂尼が花蔵殿(恵探)と「同心シテ」についてですが、大元から覆ることが書かれていました。

(その時のブログ記事です→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html


本には、花蔵殿と 同心シタ のは、寿桂尼ではなく福島であろうと書かれていました。文章をよく読めば、そういうことだと理解できる…とのこと。

しょえ~ coldsweats02


有光先生方(企画展はこちらを採用)、小和田先生、そして最新の黒田氏なとなど、私が読んだ本はみんな違いますわ。悲しいかな、原文の古文書が読めない私には分かりましぇん。読める方、主語は寿桂尼ですか?福島ですか?どうなのでしょうか?

年古りて、今川さんまで興味の幅を広げている暇はないのですが、取り急ぎ、諸説あることをブログに加筆せねばと書きました。なーんて、弱小ブログゆえ、たいして誰も読んでないけどね…coldsweats01


また、北条についても、氏邦と氏規の兄弟順(出生順)が入れ替わることが決定的となりました。これは、朝倉直美氏のご研究により、先日の小田原での浅野晴樹先生の講演の、氏邦の生年が秩父郡小鹿野両神の薬師堂にある十二神将の柄名によって証明されたとのことから、すでに分かっていたことでもあります。

(生年は、氏規が天文14年。氏邦が天文17年とな。)


しかし、こちとら素人ながら他にも調べたくなるようなことが多く、楽しみが増えた本です。

いや、調べるってね、信じていないわけではないですよ。でも、セカンドオピニオン、サードオピニオンが欲しいじゃない?諸説あり、ですしね。


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~「お城EXPO」のティールームの兜のケーキ。濃厚で美味しかった。~


そして今日、「お城EXPO」の講演で伺ったのですが、来月(1月)には、北条氏政についての本が出るそうです。

「氏政という人は、防衛・戦・領国経営など様々な分野でプロパーな人」。江戸初期には「稀代の名将」と書かれているし、当時でも一流の武将である兄弟たちにも大局的な見方で指示やアドバイスを与えている…そういうことを書いてらっしゃるそうです。


氏政ファンとしては、これも買わなきゃ~crying

ってところで、「プロパーな人」ってどういう意味ですか?


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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北条氏綱が造営した本殿と石垣 「六所神社」

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~ケヤキの巨木が立つ表参道。突き当りが相模国総社「六所神社」本殿。~


JR東海道線二宮駅からバスで10分程。湘南、国道一号線の大磯プリンスあたりを車で走っていると、国道沿いに大きな赤い鳥居が立つのをご覧になったことがある方も多いと思います。


創建は700年代。この地に移り住んだ出雲氏族が櫛稲田姫命を祀り「柳田大神」としたのが始まりとのこと。

「六所」とは、相模の一宮(寒川神社)、二宮(川勾神社)、三宮(比々多神社)、四宮(前鳥神社)、(平塚八幡宮)、そして、この(柳田大神)をいうそうな。本殿にはそれぞれの神様の扉があり、こちらでお詣りをすると相模の六所を詣でたことになるのだとか。


頼朝が、富士川の合戦にむかう時に戦勝祈願をしたり、政子さんの安産祈願をしたりなど、たいへん尊崇した神社でもあったようです。


我らが小田原北条の崇敬も篤く、氏綱が造営した本殿を氏政が修復し、現在の本殿はその時のものだと伝わっています。

父である早雲こと宗瑞の死去後の数年、軍事よりも領国固めに専念した氏綱は、相模や伊豆の大きな寺社仏閣の再興にも力をいれています。神社のご由緒や大磯町のHPには再建年代がはっきりと書かれていませんが(ご由緒には1500年代前半とあります)、大永3年の事業でしょう。棟札が残っているそうなので、そこには書かれているのかな。


鶴岡八幡宮、寒川神社、伊豆山神社はじめ、江戸や神奈川の寺社仏閣のご縁起やご由緒書は、「源頼朝→徳川家康」 と、その間の小田原北条をすっ飛ばして書かれているものが多いのですが(武田信玄殿まで書かれているのに北条が出てこない神社もある)、六所神社さんはちゃんと記してくださっていて、北条オタクとしては嬉しい限りでござりまする。


本殿は一段高いところに建っていますが、礎を支えてぐるりを囲む石垣も小田原北条が寄進したものだそうです。


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~後世に修復した箇所もある~

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石垣には、地元大磯の鷹取山の石が使われているそうです。


北条氏綱が造営した本殿と石垣のことは、瑞渓院の資料から色々辿っていて知りました(瑞渓院関連は府中の方の六所神社)。一度お詣りしたいと思っていたので、年末年始のカキイレドキも一段落した今日、今年の「北条妄想初め」として、こちらへ詣った次第。

今年も、よろしくお願い申し上げます。


「頼朝の伊豆山権現(熱海)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-984d.html

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


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シンポジウム「小田原北条氏の絆」 2018.1

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~3ヶ月に渡るスーパー連続講演会がまとめられた冊子(クリアファイルはこの日参加した人達だけ)~


小田原城天守閣企画展「小田原北条氏の絆」にからめて昨年の11月から連続して催されてきた講演会は、最終回の今月がクライマックスとなりました。


最終回はカトケン(加藤憲一)市長さんのご挨拶で幕を開けました。

続いて、天守閣館長である「小田原愛に溢れた、まさに現代の小田原城主ともいえる」(←司会の方の弁。会場内にウケた happy01) 諏訪間さん。


来年は小田原城開城500年(←諸説あり) & 北条早雲こと伊勢宗瑞没後500年 を迎えるそうで、諏訪間さんがおっしゃるには、北条氏綱を顕彰することで様々な企画を進めてゆきたいとのこと。

北条ファンにとってご贔屓の一族衆・一門衆はそれぞれあれど、北条氏綱を一番リスペクトするのは誰も同じだと思います。北条の治世を盤石とした氏綱公がクローズアップされるのは、とても嬉しいことです。


ちなみに講演は…
(11月)
齋藤 慎一氏 「北条氏照と八王子城」
佐々木健策氏 「北条氏政と小田原城」

(12月)
浅野晴樹氏 「北条氏邦と鉢形城」
池谷初恵氏 「北条氏規と韮山城」


(今月1月)
小和田哲男氏 「小田原北条氏の領国支配とその絆」
小野 正敏氏 「戦国大名と京都ー小田原北条氏の権威の演出」
竹井 英文氏 「城郭関係史から小田原北条氏を考える」
諏訪間順氏 「小田原北条氏のイメージと小田原城」

最後は、講演をされた全ての演者の方たち8人によるシンポジウムで幕を閉じました。


今回のブログ記事は(も)、長いです。前半が講演のこと。シンポジウムのことは後半です。


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~小野先生の講演~


先生方の講演はどなたも面白かったのですが、特に楽しみにしていたのが小野正敏先生の講演でした。

小野先生の講演を拝聴するのは、4-5年前の、葛西での「戦国時代の城館」と、川越での「中世東国史の軌跡と未来」の2回だけです。北条に特化しての小野先生のお話しは珍しく、北条オタクの私にとっては新鮮かつ客観的なお話しが伺えそうでワクワク happy01


案の定!とーーっても興味深い内容でした。我が八王子城の例もたくさん出ましたよ~。

以下、ビビッときたところを、ザックリで先生には恐縮ですが要約して書かせていただきました(言い回しやお使いになった語彙などは正確ではありません)。先生のお話しは、私なぞではとても書ききれないゆえ、きちんと知りたい方はトップの写真の素敵な冊子を是非お求めくだされ。


先生は、「今東国において北条氏を研究することは大変意味がある。」とおっしゃいます。

horseまずは、ドップリ北条研究ではない小野先生がそれゆえに客観的にクールに(?)まとめられた、北条が東国に根を張るために行った3つの作戦について。


① 氏綱による家格ランクアップ作戦
北条への改姓、近衛家から迎える後妻。また、左京太夫や御相伴衆などの官位取得は戦国時代には何の実態もないものだが、今川・武田のように御職を持たない北条にとっては必要なものだった。


② 東国の武家棟梁としてのイメージ継承作戦
特に鎌倉幕府が庇護した有力寺社仏閣の修造や保護。
(前回のブログ記事で書いた六所神社もそうでしたね!)


③ 関東公方乗っ取り作戦
娘の芳春院を嫁がせ、生まれた男子(義氏)を無理やり(←by マリコ・ポーロ)次の公方にし、そこへ氏康の娘を嫁がせ、北条を関東管領に補任させたりした。

(おお!こちらも当ブログでは「北条五代の娘たち」や葛西城のあたりの「後北条一族の陰謀」などで、しつこく、こってり追いかけておりまするぞ。)


horse次に、小田原城と八王子城の発掘された権威空間について

▲ 近年次々と北条氏の建物群や庭園が発掘されているが、こうした遺構群がひとつの城だけではなく、いくつもの城で、まとまったかたちで発掘されるのは例がなく、その上、同じ北条氏の城の中で比較できるという点では重要な成果である。


▲ 小田原城の御用米曲輪は、まだ一部しか発掘されていないが(主殿あたりがまだ)、八王子城からは、主殿・会所・池庭・広庭など全てが出てきたといえる。

▲ 御用米曲輪の切石敷きだけを初めて見た時は、その異質さになんだか分からなかったが、全体像を把握した時に、そういうことかと分かった。これは、権威を示す空間として他にも例が見られる空間。

▲ 小田原城の建物と庭園は、広い砂利敷の中に規模の大きな池庭があり、主要な建物と庭を大きく離した広がりのある空間は、将軍家や細川邸などと同じく一昔前の庭の造りであり、つまり、権威を演出するもの。


▲ 八王子城は、エリアの広さ(狭さ)も関係もするが、池と建物がセットになったコンパクトな機能の造り。つまり、戦国時代的な空間。

ただし…

この時代の最先端でモダンなプランの造りや配置なのに、池の護岸の縁取る石の並びは非常に「稚拙」で、「こりゃ、どういう意味だろう???」と。


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~コレ。 パワホの映像をアップにしました。分かり難い写真で申し訳ないです。八王子城ガイドの会のHPには、もっとハッキリ写っています。~


大内館などの池の写真を示され、普通は池の縁取りは、大小様々な石で景色を作っていくそう。大名庭園と館の専門家である小野先生の考察に、あらためて八王子城の写真を見てみると、まさに、ホンマやという感じ。あの時は、池が出てきたことだけに興奮してしまっていたものねえ。

池の護岸は北条時代は未完で、その後、水が流れてきてしょうがないので大久保さんの人足が取り急ぎ組んだのかもしれない(by マリコ・ポーロ妄想)。


先生はこの話をする時、「八王子の人、来ていないですよね~!」と冗談めかして何度も確認されるのが可笑しかったです。

いますよ~、先生。たっぷり来てますよ~。


小野先生は、現代のことでも、関東を「東国」とおっしゃるのが面白いです。また、お話しを聞いていると、あらためて、つくづく、北条って特殊なんだな~とも思います。


horse威信財とカワラケ、北条の首都作りのこと

と、このへんで、ワテの筆力の限界。まだシンポジウムのこともあり長くなるので、繰り返しになりますが、あとは冒頭の冊子をお求めくだされ。とても詳しく書いてくださっています。


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~シンポジウムは、血湧き肉躍る超ゴージャスメンバー。さすが本城。~


シンポジウムはとっても濃い内容でした。壇上だけではなく会場内にいらしている各城(北条支城以外でも)の研究者方も調査の現況について次々とコメントが求められていました。

企画展と連続講演会のテーマのとおり、北条五代が深めた支城間の「絆」は現代も繋がっている、そんな気がしました。

講演と同じく、気になったところだけ(覚えているところだけsweat01)以下。


▲ 宗瑞の小田原奪取の年が、明応9年に落ち着いた(という新説)について

小和田先生、
「ちょうどこの話がでたので…これは皆さんに申し上げたいのですが…、ひとつの新説が皆で検証され認められるには最低でも10年 はかかる。そういう意味からも「9年」も顕彰が必要。新説が出たからといって、すぐに皆でそうしてしまわないことが大事」
だとおっしゃいました。


佐々木さんは、
考えたことをすぐに発信するとアッチコッチから色々な批判がくる。それで研究が進むという利点もあるけれど、その考えはどんどん変更されていくから常に気を付けて見ていかなければならないと。


齋藤氏、
大森氏を追いやったというが、そもそも大森氏の拠点はどこだったのか?

それは、宗瑞vs大森氏 ではなく、宗瑞vs扇谷 ということで考えるということですか?分からにゃい…coldsweats01


(小和田先生のお言葉ですが、当ブログなぞは蟻の爪にも引っ掛からない弱小ブログなので影響力はまったく無いとは思いますが、新説を読むとすぐに、「こう書いてあった!ドびっくり~!」としてしまうので、少し反省。センセーショナルな書き方はしないようにしようと思いました。)


▲ 氏邦の生年がハッキリしたこと(薬師像の銘札で裏付けられた)と、それによる氏規との出生順のチェンジについて

これは前回の講演会での浅野先生のお話しで初めて知ったことです。


「通説・定説は書き替えられるのが、歴史」 by 小和田先生。

また、考古学系の先生方が、氏邦の生年が何年だろうが実はどーでもエエみたいにおっしゃったのには、会場大笑い。確かに~。


▲ 八王子城、天正18年廃城でいいのか?

齋藤氏
「当事者なので言いにくいのですが…文献データと考古学データの付け合わせは大変難しいが、真実はひとつだと思います。」


▲ 北条の城の特徴

諏訪間さん
北条の城の特徴は、「関東ローム層で守られた城」

齋藤氏
「北条系の城だ」「武田系の城だ」は、ない。と、ここで、会場にいらした加藤理文氏も登場。


小和田先生
もちろん違うところもあるが、ある程度の共通した特徴はあるので、〇〇系とは城の縄張りをあえて分かり易く話すために言い始めたもの。


「織豊系の城郭とは、天守があって石垣があるもの。技術をともなうものだが、後々、技術を伴わない 真似っこ城が出てくる」←あれ?これはどなたがおっしゃったのでしたっけ?


▲ 小野先生

・北条は本来の研究対象ではないが、御用米曲輪を見て小田原北条がなんたるかが初めて分かった。

・全国レベルでトップクラスの城だ。

・八王子城の主殿などの建物プランが、同じ時期に出来た聚楽第とそっくり。最先端の技術を取り入れ、それがすぐ出来る。技術集団が全国を動いている?
(技術集団は契約関係だったと思うと、齋藤氏。これは、講演でのお話にもありました。)

・本城と支城群がこんなにまとまって系統だって掘れているところは他に無い。


▲ ▲ ▲

ふう~。他にもたくさん楽しい話はあったのですが、全に筆力&記憶力&脳内整理力&体力の限界。今日のお休み一日を全て費やしてしまった。ここまで読んでくださった方も、ありがとうございます。

連続講演会には3ヶ月皆勤賞(早退ありsweat01)。途中で早川口の見学会もあったりして、数年前の御用米曲輪の連続見学会を思い出すような、北条成分をたっぷり注入できた3ヶ月でした。ありがとうございました。


karaokeまだまだありますぞ。北条系(?)の大きな講演会。

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伊豆の国市文化財講演会 「韮山城をめぐる攻防」

講師: 中井均氏、齋藤慎一氏
場所: アクシスかつらぎ大ホール(長岡)
日時: 1月20日13:00~
申込不要

問合せ先: 伊豆の国市教育委員会文化財課

オイはもうとても行けもはん。残念でごわんど~。


「お城EXPO」の北条関係講演会 と 小田原城天守閣「絆展」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-1e38.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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「滝の城」見学会配布資料と、小田原城見学会(2/3)

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~滝の城~


来る 2月3日(土)には、北条の2つの城で発掘調査見学会があります…というか、あるはずでした。


horse滝の城

我らが北条氏照ゆかりの、所沢にある「滝の城」の見学会は、先日の降雪のため中止になりましたね。久々に登城しようと考えていたので残念なり。

見学会で配布予定だった資料が、さっそくHPにアップされています。

http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/event/main/bunka/genchisetumeikai2017.html


horse小田原城

我らが本城で、またまた戦国期の遺構の発掘調査見学会です。

皆さんご存知の、駅の横のあそこです。おととしの5月から掘っていましたよね。長~い期間掘っていましたね~。今回の見学会が最後だそうです。


今までにも戦国期の砂利敷遺構、柱穴列、畝状遺構などが出てきていますが、今は、半円状の大きな溝や、周囲を溝と立木で区画して内部に砂利を敷いた建物遺構、井戸などが見つかっているそうです。

三の丸の外にも、戦国時代の屋敷が広がっていて、そこから景徳鎮なども出てきているのですね。面白そうです。

http://izu-sagami.jp/odawara/?p=1732


昨年10月からのスーパー連続講演会&シンポジウムが終わり、早川口の見学会やお城EXPOが途中で入り、やれやれ gawkこれで一段落。やっと 「北条五代の娘たち」の続きに専念できる…とホッとしていましたら(←ウソだ。つまんないって言ってたくせに)。

どーしましょーねー。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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