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Channel: 風なうらみそ~小田原北条見聞録
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一気に埋められた(埋めた?)戦国時代の小田原~日向屋敷跡

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~向こう(北側)に見えるのが駅。手前(南側)がUMECOや天守閣。青い矢印 は、大溝(堀?暗渠跡?)。ピンクの が、謎の長方形の空間(下記)。土地は、手前側が高い緩やかな傾斜になっている。~


おととしの初夏の頃から足掛け3年、掘り続けられていました。駅から天守閣への行き帰り、フェンスが長々と続いている光景がもう目に馴染んでしまっていましたが、見学会は今回の戦国時代で最後とのこと。

積雪の影響が心配でしたが、雪の影響はすっかり跡形もなくなっていました。見学会前日はたいそう大変なことだったと存じます。ありがとうございます!
m(__)m


ここは、徳川初期に ミセス大久保(日向殿)が蟄居した屋敷があったと伝わるため、「日向屋敷跡」と呼ばれているエリアです。八幡山丘陵の南西側の張り出し部にあたります。

江戸時代の発掘調査(見学会もあった)が終わり、現在は戦国時代の遺構を調査中です。発掘調査は一番新しい時代が優先で、その下は掘っちゃいけないのだと思っていましたが、今は地山まで掘ってもいいようですね。知りませんでした。それとも、いい場合とアカン場合とは、何か決まり事があるのかしら?


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~断面からは、江戸時代の遺構の下に、同じ土で同時期に埋められた(埋めた?)痕跡が見られた。~


冒頭の写真の手前側(南側)から、次々と土が投げ込まれた様子が確認できます。つまりUMECO(交流センター)があるあたりの高台の土を削って、短期間で一気に埋められた(埋めた?)のだろうとのこと。

「大規模な土地改変」が行われた痕跡だそうです。


horse確認された戦国時代の遺構

大溝(堀?暗渠跡?)、建物遺構、素掘り井戸、畝状遺構などなど。

昨年出てきていた、北側の畝状遺構や南側のダレッとしたsweat01障子堀(佐々木健策さんおっさるところの「カッキリした氏政の障子堀」ではなさそう)などは、すでに埋め戻されていました。


井戸は、このエリアだけでも、なんと 50 本!(江戸時代含む)。全てが同時に機能していたわけではないそうですが、ドびっくり~。水が非常に出てくるエリアだそうです。


horseお宝

瀬戸美濃の大鉢やカワラケも出てきていますが、目玉は、井戸の景徳鎮の白磁の菊皿9枚。綺麗に伏せて重ねた状態で、5枚と4枚に分かれて置かれていたそうです。現物と検出時の写真が展示してありましたが写真を撮り忘れました。


見学後に歴友師匠方と、例によって「北條水軍」さんでお昼を食べながら菊皿の話になりました。

何故9枚?
「井戸仕舞いをした跡ではないか?」「9枚重なっていたけど、地震とかなにかで、4枚と5枚に分かれたのではないか?」

私は、「初めは10枚あったけど、1枚は、お菊さんが割ってしまったんですよぉ~。にゃーんて」。

1枚だけ歪んで楕円形だったのは、どうしちゃったのだろうか…?


horse謎の長方形の空間

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ピンクで囲んだ部分です。周囲は溝。縁には縁石。立ち木が2か所並んでいます。

両サイドには玉砂利。玉砂利は、中央部には、初めから無かったのか、両脇に寄せられたのか、水で流れたのか分かりませんが、ありません。玉砂利は、元は左下のぐらい盛り上がっていたと考えられるそうです。

建物は、どうやら無かったようです。


立ち木の種類はこれから検査だそうですが、おそらく杉とかの針葉樹のようです。全て、同じ高さで途中で切断されていました。何故かはまだ分からないそうですが、たぶん、ある高さまで土で埋め、そこから飛び出たところを切ったのだろうとのことです。

立ち木の状態で残ったのは、他の部分の遺構も同じことで、一気に埋められたため当時のままの状態が土の下に保たれたのだそうです。

いったい、なんだったのでしょうねえ。生活空間でないことだけは確かですよね。


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~広さはこの位。 は周囲の溝。~


戦国時代の遺構は、廃城後に埋められたのか、それとも北条の最後の時に自ら埋めたのか意見が分かれるところです。

「短期間に一気に埋まった」と伺い、御用米曲輪を埋めたのと同じ時かと一瞬考えました。しかし、その埋土層を実際に見て、秀吉の大阪城を埋めた家康殿を思い浮かべましたよ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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金沢文庫「運慶」展と、2月以降の気になる企画展・講演会(2018)

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~冬枯れの称名寺。静謐…。~


horse金沢文庫「運慶」鎌倉幕府と霊験伝説
会期: 1/13(土)~3/11(日)

平日なのに、いつも森閑とした金沢文庫もたくさんの人でした。さすが、運慶。


文庫の運慶展の開催主旨のことはよく知らないで参ったのですが、先日の東博との関連開催でありながらも、東博とは違い、東国の運慶とその工房ゆかりの仏像の展示と鎌倉幕府との関係を中心としたのだそうです。とても興味深い仏様が勢揃いで、皆さん説明をじっくり読んでらっしゃいました。

皆さんはご存知と思いますが、仏像の胎内などに「運慶」とサインがあっても、運慶自身が彫ったのではなく 、運慶工房が彫ったものが多いそうですね。胎内サインがあれば自作かと思っていました。知らなんだ。


壮観だったのは、ズラリと居並んだ曹源寺(横須賀)の十二神将。そして私のツボは、昨年「かんなみ仏の里美術館」で拝んだ実慶の勢至菩薩と、保寧寺(埼玉北東部)の宗慶の三尊像が並んで展示されている一角と、来館されていた修禅寺のお坊さん(お坊さんフェチゆえcoldsweats01)です。


お昼は文庫&称名寺に来ると恒例、参道の「ふみくら茶屋」。私たちは峰岸先生はじめ総勢20名弱だったので食事が出てくるまでにかなり時間があり、それが幸いして、別室にて西岡学芸部長さんから、禅律のことや『吾妻鏡』やモッチー(持氏)、称名寺の猿楽などのお話を伺うことができました。

「ふみくら茶屋」のご主人は称名寺の寺侍浅葉家のご子孫だそうで、職業は変われどもう何百年もこの地で暮らしてらっしゃるのですねえ。なんだか、近江葛川明王院の鬼家を思い出してしまいました。


金沢文庫や称名寺を訪ねたり鎌倉を歩いたりすると、小田原北条ではなく前の北条に凝ればよかった…な~んて思ってしまう。一瞬。


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~称名寺境内の金堂・釈迦堂・鐘楼の背後、金沢三山と呼ばれる頂から金沢八景の海を眺めるの図(同行の同好の志が撮った写真です)。

https://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/bunko/tenji.html


horse2月以降の気になる企画展・講演会

矢文・投げ文、そして付け文…は、ないpaperをいただきました。2月からは、チョイト渋い講演会や企画展が続きますな。

国立公文書館の太田道灌と、群馬県立博物館が特に楽しみです!


▲ 津久井城 考古学調査第6回
相模原市立博物館

講 師:佐々木健策氏
日にち:2月25日(日)

http://sagamiharacitymuseum.jp/blog/event/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%8E%9F%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E5%BA%A7-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%80%80%E6%B4%A5/


▲ 「太田道灌と江戸」
会 期:1月13日(土)~3月10日(土)
場 所:国立公文書館

ギャラリートーク:次は2月21日(水)14:00~
http://www.archives.go.jp/exhibition/


▲ 鎌倉歴史文化交流館 発掘調査速報展

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~坂東の戦国ファンはビビッheart04とくる扇谷にあり、ロケーションも素晴らしい!~

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~交流館の、前回の第1回目になる企画展は「甦る永福寺展」。大変興味深かった。~


第2回目の企画展は「鎌倉の構造と境界、若宮大路周辺遺跡群・大倉幕府周辺遺跡群」。

会期:2018年1月4日(木)~3月17日(土)

「今回の速報展では、「鎌倉の構造と境界」をテーマに、平成28年度に実施した発掘調査のなかから、若宮大路周辺遺跡群(小町一丁目343番2地点、および大町一丁目1084番1・1085番1地点)と、大倉幕府周辺遺跡群(二階堂12番8地点)について、出土した遺物と関連資料により紹介いたします。」
だそうです。

学芸員による列品解説(ギャラリートーク): 毎週土曜日11:00から
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/sokuhou2018-1.html


▲ 講演会「第1回 高麗郡中世歴史講演会」

東国を舞台に活躍した中世武士団 はたして高麗郡にも…」
と。

講師:櫻井 彦氏(宮内庁書陵部)
日 時: 3月24日(土)1:30~4:20
場 所:
日高市生涯学習センター

要申し込み
http://komagun.jp/2017/1218/7098


▲「信長と上野国」
会 期:3月17日~5月13日
場 所:群馬県立歴史博物館

「神流川古戦場や名勝楽山園など、織田氏とのかかわりが深い群馬。天下統一の礎を築いた織田信長と群馬・東国のダイナミックな歴史に迫ります。」
だそうです。


(講座)
・4月15日(日)「近世の織田氏と小幡藩」
・4月22日(日)「滝川一益が入った城―厩橋城・箕輪城の発掘調査から―」
・4月29日(日)「史料と地形・史跡・伝承からみた神流川合戦」

(シンポジウム)
5月6日(日)「中世の北関東と京都―織田信長と北関東―」

とっても楽しみです!HPに詳細はまだのようです。
http://grekisi.pref.gunma.jp/future_exhibition.html#info


▲ 日本城郭史学会大会「海城・水城」 
日 時:4月28日(土)大会 13:00~17:30

会 場:板橋区立志村グリーンカレッジホール

内容:
- 発 表① 総論「海城・水城の諸形態」
西ヶ谷 恭弘 代表
- 発 表② 北条・里見水軍の戦と江戸湾の築城
真鍋 淳哉 氏(青山学院大学講師)
- 発 表③ 村上水軍の活躍と築城
大上 幹広 氏(今治市村上水軍博物館学芸員)
- 表④ 九州の水軍とその活動・築城(仮)
鹿毛 敏夫 氏(名古屋学院大学教授)

要申し込み
https://castle-history.jp/news/event201804/


▲ 玉縄城址まちづくり会議

こちらもHPにはまだのようですが、5月~7月に鎌倉や藤沢の戦国時代についての講演会・シンポジウムがあるそうです。こちらも楽しみでございもす!


「瀬戸神社展と金沢文庫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post.html
「信仰の里~中伊豆かんなみ「仏の里美術館」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-0862.html
「早雲・秀吉の兵火に耐えた五体の運慶仏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-a414.html

「神流川の戦いの地へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-dae8.html
「激戦!金窪城から神流川へ~天正壬午の乱」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/18-f136.html

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「その2」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「その3」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html
「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html
「小田原城内にあった為さま(北条為昌)の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-e4c6.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に終えた駿東の名族葛山氏

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by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち⑥
【二代・北条氏綱の息女たち、葛山氏元室】


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~諏訪の神が渡る。ずーっと向こうまでうねりながら続いている。(岡谷市立湊小学校あたりより 2/14)


二代北条氏綱の娘が嫁いだ葛山一族の終焉について妄想を広げるべく、note8時ちょうどの~ あずさ5号で~ 向かったのは信濃諏訪。諏訪御前の諏訪湖です。2号じゃなかったのがチト残念。


時まさに、五年ぶりの「御神渡り」。

御神渡りのことは皆さまよくご存知のことと思いますのでここには書きませんが、本当に興奮しました。言葉も出ませんでした。写真ではとても伝わらないですが、お天気が良かったこともありキラキラと神々しくて、なんと申したらいいのか…ピュリファイ(浄化)されたような気がしました。


湖畔で御神渡りを拝んだあとは、背後の山にある小坂観音院から御神渡りを俯瞰しました。

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~境内のすぐ下が諏訪湖(つまり画面向こうの白いところは、全面氷結した諏訪湖)~


時まさに、BSで「風林火山」の再放送中。観音院には誰もいなくて妄想の極致。

由布姫さまーーっ!湖衣姫さまーっ!

注) 諏訪御前が観音院にいたというのは井上靖氏の「風林火山」での創作です。それでもいい!このあたりにいらしたと思いたい。


土地の古老がおっしゃるには、今、諏訪湖はおよそ4m 沈んでしまっていて、かつて(どれ程のかつてかは分からなかった)は後ろの山くらいまでが湖面だったそうな。

4m とまでではないにしても、戦国時代は諏訪大社の上社や下社も観音院も、もっと湖に近かったのですねえ。そういえば高島城は浮城と呼ばれていましたよね。


fuji駿東の葛山一族の終焉で、なぜ諏訪へ?

当シリーズ「北条五代の娘たち」①の北条早雲こと伊勢宗瑞の娘たち番外編「北条幻庵の妻は葛山か?」でもチラと書きましたが、葛山一族の血をひく最後の当主である葛山氏元は諏訪にて命を終えたのです。

一族ということでなければ、武田信玄殿の息子信貞が「葛山家最後の当主」となります。)


最初にこのことを知ったのは、「『仏眼禅師語録』に氏元が自殺したとある」を読んだ時です。

今川・北条と共にあった葛山は、武田信玄の駿河侵攻時に駿東という立地がゆえに武田に付きます。その後諏訪の在番となりますが、北条への一味を疑われ処断されました。それで自殺、か…。


その語録を見てみたい、どうせ読めないけど。語録はどこにあるのかしら?検索しても出てきません。聞き回っていたところ歴友武将さんから「裾野市史にありやしたぜ!それも、諏訪湖に投身だとさ!」との矢文が。

諏訪湖に 「投身」 ですって!?こりゃまた、ドびっくり~ wobbly


道灌びいきの会の史家葛城明彦さんが面白いことをおっしゃっていたことがあります。「身を投じる」という行為は女人に多い。池に身を投げる、川に身を投げる、高い所から身を投げる…そういう伝説も皆女人である。男はあまりしない、と。

なるへそ、平家一門は海や滝に身を投げましたが、彼らは貴族のようなもの。確かにそうかもしれない。となると、バリバリ戦国男子の氏元が諏訪湖に身を投げたとは珍しく、ドラマチックでもあります。さ っそく図書館へ。


と、その前に…


fuji初期北条家と葛山家の濃ゆ~い関係

駿東地域に勢力を張る国人(今は国衆と言わなければいけないの?)葛山氏は、北条早雲こと伊勢宗瑞一家と縁組を重ねるほどに、今川家の御一家衆として重きをなしていきました。

主要メンバーの縁組としては、

① 宗瑞の側室=葛山一門の女。

② ↑この、宗瑞&葛山女の息子(ほぼそう but 諸説あり)である氏広=葛山に入り葛山当主となる。となると氏広の室も葛山一門の女と思われる。

③ 同じく宗瑞の息子である幻庵の室=葛山一門の女、たぶん(マリコ・ポーロ妄想/文末リンクをご覧くださりませ)


そして、

⑤ 宗瑞の息子である二代北条氏綱の娘=氏広の次の当主である氏元に嫁ぎます。

娘の名前は ちよ。昔の女人で、名前が分かっている人は珍しいです。ちよさんの娘も名前が分かっています「ちやち」さんと「おふち」ちゃんです。


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~関係者のみのザックリ系図(〇数字はこの系図内での当主の順)。氏綱と幻庵の母は葛山の女ではなく、氏綱母は小笠原家の姫南陽院様。幻庵母は狩野の娘善修寺殿。図がややこしくなるので一緒にした。それにしても、葛山は養子ばかりですな…。~


ちよさんの娘の おふちちゃんは、上に書いた、氏広・氏元の次の代の葛山当主である、信玄殿の息子貞信に嫁いでいます。

貞信は、勝頼さまが信長に滅ぼされた時に甲斐善光寺で自刃したそうです。系図上での葛山氏の終わりですね。


fuji諸説、ちよさん&葛山氏元の最後

ところが…

裾野や諏訪や茅野の市史、静岡や山梨の県史などなど色々と読んだのですが、「投身」とあったのは裾野市史にある『仏眼禅師語録』の「後付けの見出し」だけでした。語録自体には、諏訪湖で波に没溺(落ちて溺れる)とありましたが、自ら身を投げたとまでは書かれていません。


以下、様々。
様々がメンドクサイ方は、すっ飛ばして最後の妄想(?)あたりだけでもご覧くださりますれば嬉しいです。


book裾野市史より

▲ 仏眼禅師語録

(後付の見出し)
「鉄山宗純、葛山氏元の諏訪湖に投身 するを悼み、漢詩を詠む」

鉄山宗純が仏眼禅師です。

(その漢詩)
…蒙、府命、
潜蹤於諏方大湖上、(中国の誰だかの例えが入り)…俄然被没溺説波


(意訳)
信玄殿の命により、
諏訪大湖上に
潜蹤(跡をくらます)(中国の誰だかの例えが入り)…あっという間に説波に没溺(落ちて溺れる)

嗚呼天乎命乎 crying


(裾野市史の系図)
遂ニ於諏訪為信玄被誅畢
遂に信玄に処罰され諏訪にておわってしまった

でした。「湖」も「投身」も「溺死」もありません。


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~是非とも行きたい「葛山城」パンフレットと裾野市史のコピーの一部。~


book諏訪市史
「処刑」のみ。


book『今川家譜』

諏訪ニテ一族皆討レケリ

「諏訪にて」で、「諏訪湖にて」ではありません。
それにしても、うぅぅ。一族みんな討たれたのですか!ってことは、ちよさんや子供達も?



book『甲乱記』
信州諏訪ノ郡、高嶋之湖水之波ニ、一門悉く沈果

こちらは「諏訪湖」ですが、今川記と同じく、一門ことごとく沈んで果てるんですね。


book『松平記』

諏訪にて一門五人、張付にせられける

えっ!五人?
人数が出てきましたね。5人…氏元+ちよさん+娘のちやちさん+3人の息子たち(松千代・竹千代・久千代)=計6人ですな。「一門」なので家族とは限りませんが、ちやちさんは女の子だからご赦免かしら。

そして磔。昨年の大河の政次の磔シーンを思い出してしまいました。


book静岡県史・山梨県史
「諏訪にて処罰」


と、様々なので、諏訪市さんにも問い合わせました。

pen諏訪では、葛山は従来の研究調査の対象外ということで、葛山氏の供養塔などももしかしたら存在するのかもしれないが確認できず、「信濃史料」などにも記載がないとの、とても丁寧なお返事をくださいました。

葛山は諏訪では研究調査対象ではにゃい。そりゃそうですよね~。


どこの自治体さんも、お返事いただくまで時間はかかりますが、お忙しいでしょうに一素人歴史ファンの問い合わせにもたくさん調べてくださって本当に有りがとうございます



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~上諏訪側の湖畔より初島と八重垣姫像(手前さざ波ではなく凍っている)~


先代の氏広も、この氏元も、葛山城よりは駿府で過ごした方が多かったと思います。女人の ちよさん などはましてそうだったでしょう。

氏元が今川を離れ武田に従い諏訪に行かされた時、北条の女である ちよさん は、他の北条の娘たちと同じように夫と行動を共にしたはずです。


武田に従属した約4年半の後、上に掲げた文書から伺えるが如く、ちよさん も諏訪にて討たれたのでしょうか。

北条の娘たちで、夫君とともに国を追われたり自刃したりした人はいますが、処罰された人はいません。万が一、ちよさんが張付にされたり、そこまでてはなくても処刑されたりしていたとしたら…あまりにも哀れです。


もしかしたら氏元たちの遺体は諏訪湖に放り込まれたのではとも考えました。されど、地元の方達の諏訪湖に寄せる思いを伺いながら、この冒しがたい湖を眺めると、処罰された罪人(この場合は葛山)の遺体を遺棄したとは、やはり考えられないと実感しました。


約五百年に渡り駿東に根を張った名族葛山氏の血を引く当主の終焉の地が諏訪だったことには驚きましたが、感慨深いものがあります。

果たして、ちよさんと氏元とその子供達は、私が歩いた諏訪の土の下で眠っているのでしょうか。それとも旧臣の誰かがこっそり連れ帰り、富士の裾野の駿東のどこかに密やかに埋葬してくれたのでしょうか。


氷に覆われた神の湖は、静かに暮れてゆきました。

こたびは、これまでに。



cherryblossom葛山氏元とちよさんを調べるにあたり、武将歴友の一人であり、葛山城のおまつりなどにも関わってらっしゃる三郎兵衛さんに教えていただくことが多く大変お世話になっております。ありがとうございもす。)


wine今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれ続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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「福嶋氏と今川氏親・寿桂尼」 戦国史研究会

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~2018・3・10 駒沢大学駒澤キャンパスにて~

講師は、『今川氏研究の最前線』や大河ドラマの時代考証など今川氏研究で知られる大石泰史氏。


昨年の島田市博物館 「寿桂尼展」で、「花蔵の乱で寿桂尼は恵探側だった」という説明文を読み ドびっくり~して以来 チョコチョコ とブログに書いていおりますが、乱での寿桂尼の立場についてもっと知りたいと思っていました。

そんな時になんというタイミング!
戦国史研究会さんの今月の例会は、福嶋氏と氏親・寿桂尼についての講演だとの矢文をいただきました。しかも講師は大石氏です。

土日はほとんど仕事なのに、偶然たまたま、行けと言わんばかりに仕事はお休み scissors。拝聴してまいりました~。


福嶋氏については、玉縄北条の綱成の出身だという以外はほとんど知らなかったので、とても面白かったです。以下、ビビッときた三つの鱗を自分の備忘録として…。

(もしご興味ありましたら、先にこちらをご覧いただけると助かります。→「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html


▲-1 福嶋氏は今川家の中でかなり重要な存在だった

それこそ島田市博物館のある島田の領主でもあった。島田は、駿東の国境である大井川畔に位置する物流の拠点。しかし、福嶋氏が入るまでは、この駿河西部には主だった在地領主(国衆と言わなければいけないの?)がいなかった。

福嶋助昌や、助昌開基の静居寺、歴代の福嶋一門の諱などから福嶋が今川で非常に重きを成していたことが分かった。


wineふ~ん。
だから、福嶋の女が氏親の側室にもなったのですね。


▲-2 花蔵の乱後も今川に残った福嶋氏がいた

福嶋氏は、VS 武田信虎の飯田河原(大永)・上条河原(永正)と、花蔵の乱(天文)で没落したが、以後も、それ以前と変わらずに今川に仕え、三河・尾張方面の最前線に配置され、外交交渉を担った福嶋もいた。


wineへえ~~。
綱成が北条に来たので、福嶋一門は今川では壊滅したのだと思っていましたよ。すみもはん。となると、綱成たちは、いつ、どれだけの人数で、どのような状況で北条へ来たのでしょう?

福嶋氏と小笠原氏は一類であり、福嶋氏にしても、越前守・豊後守・和泉守→稲葉守など色々な福嶋さんが出てきて、綱成さんちはどの系統なのか、はたまたどれでもないのか、よく分かりませんでしたsweat01


伊勢宗瑞と福嶋が一緒に東へ行った…という話もあるそうで、万が一そうなら、福嶋は北条にとっても古参の氏族になります。しかし、万が一そうでも、一緒に来た福嶋に、のちの綱成の父親なり祖父がいたのかどうかは分かりません。

それとも私が知らないだけで、「綱成は福嶋〇〇の出で、いついつ、こうこうこういう経緯で北条へやってきたのだ!」と、最近、いきなり新説が発表され、それに決まったりしているのでしょうか?


そして本題(ワテにとって)の花蔵の乱です。

Photo_2
~寿桂尼の印判「嫁ぐ」(駿府の菩提寺龍雲寺にて)~


▲-3  花蔵の乱での寿桂尼の謎

越前守という福嶋さんが登場。福嶋越前守は、氏親の棺を担ぐメンバーにも任ぜられたほどの重要な存在だった。


福嶋は寿桂尼の取次でもあり、氏親亡きあとの寿桂尼は氏親ラインを引き継いでいる。また、福嶋氏は京都との独自の外交ラインも持っていたのではないだろうか?氏親は対幕府対応にもそれを使ったのではないだろうか?

ゆえに氏親は、福嶋と「姻戚となることで、より一体的になることを望み、家中もそれを容認」。だから福嶋の女が氏親の側室になることも、寿桂尼も認めていたのではないか?


wineなるへそ~。
そういう中に生まれた子供が、花蔵殿(玄広恵探)なのでござりますな。

お話しはいよいよ核心の、ずっと気になっている、武田の高白斎が書いた、

「五月廿四日夜、氏照(輝)ノ老母、福嶋越前守宿所ヘ行、花蔵ト同心シテ翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠、…」

です。はたして寿桂尼は、息子の義元ではなく、福嶋と共に恵探を当主に擁立しようとしていたのでしょうか?


大石氏は、
以上などなどのことから、

(寿桂尼が)義元と対峙するのは当然の推移

なのではないかとおっしゃっていました。島田市博物館で私が ドびっくり~! した内容と同じです。


う~む think
これを読んでくださっている皆さまはご存知だと思いますが、ある有名研究者の方が、今主流のこの説に反論していますよね。

それは…

そもそも文書の読み方が違う。「同心シテ」は寿桂尼にかかるのではなくて福嶋越前守にかかる。「福嶋が花蔵殿(恵探)に味方して駿府で合戦し、敗北して久能城に後退した、という文章として理解できる」。だから寿桂尼は福嶋越前守と同心していない…

というものです。


では、寿桂尼は何をしに福嶋越前のところへ行ったのかしら?文にやたら句読点「、」が付いているのも読み解きにくいのでしょうかねえ?

諸説ありということで。。。


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~「太田道灌と江戸」展、 国立公文書館~

すでに先週で終わってしまいましたが、戦国史研究会さんの例会の日の午前中は、道灌を見て参りました。道灌と寿桂尼で脳内ゴチャゴチャの五目ご飯~。


昨今、太田道灌の嫡流について諸説あるようで、最近いきなり浮上してきた「太田永厳」という人のことが何か出ているかもしれないと思って行ったのですが、ありませんでした。


ここに写真を載せるのは控えますが、配布されていた「日本一単純な享徳の乱関係図」が、日本一分かり易くて素晴らしかったです。マンガチックに利根川の左右に主要人物が描かれています。里見とワンコdogが一緒にいたり、宗瑞を隅っこにほんのチビットちっちゃく登場させていたり、京都には義政と万里集九がいます。

それぞれの年齢(文明8年頃)も記されていました。道灌と足利系を除くと、みんな30代前後。ノリノリの世代ですね。


それにしても、パソコンで 「くしま」 とうっても「福嶋」が出てこず、単語登録すればいいものをしないで「ふくしま」と何度も何度もうっていると、「くしまがね…」と話す時につい、「ふくしまがね…」と言ってしまうようになるのが困るのね。


「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html

「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html

「諸説あり?『北条氏康の妻 瑞渓院』 黒田基樹著」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-56ab.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?

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~榎本家長屋門(練馬南田中)。太田道灌が石神井城を攻めた時に従った「田中十家」のうちのひとつと伝わる。江戸時代は名主さんで、大正時代まで茅葺屋根だったそう。道灌びいきの会で見学。~


このところ、ず~~~っと考えています。以下、考えていることメモメモ。

今まで、

① 太田道灌が主君(扇谷)の指令で殺される

② 息子の資康は山内に付く
(三浦の娘を娶る=三浦浄心院

③ そのまた息子の資高は北条に内通し、江戸城は北条のものとなる
(北条の娘を娶る=北条浄心院

④ そのまた息子の康資は北条から離叛し、安房へ…

と、アッサリ・ザックリだけの認識で満足していました。


そして、
⑤ 太田家は道灌が死んだあと江戸太田と岩付太田に分かれた…

と、何も引っ掛かることもなく受け入れていました。


一昨年より北条五代の娘たちを追い始め、氏綱の娘で資高の室三浦道寸の娘で資康の室が同じ法名「浄心院殿日海」で、同じ没年月日、没地も同じだということを発見しました。

いったいどちらが浄心院なのかを調べ始めたところ、それぞれの伴侶である資康(父)と資高(嫡男)について疑問が噴出。私のザックリ納得の知識は随分とハショられていて、その隙間隙間を隙間家具のように埋めたくになりました。隙間家具は隙間を有効に活用しますからね。←??


Img20180402_210500
~扇谷定正が家臣の曾我に宛てた書状(国立公文書館「道灌展」にて)。道灌を誅殺した理由が書かれていた。「道灌が山内に対して不義を企て、それに対して度々諫めたが、道灌が謀反を起こそうとしたため誅殺したとある…」と。~


さて、隙間のこと。

horse例えば…
浄心院はどっちだ?がメインテーマ Now ゆえ、上の②と③の間の隙間について。

つまり、父親の資康が三浦に援軍として向かい亡くなった(たぶん)のち~北条に付くまでの資高少年は、どこでどうしていたのだろう?

父と一緒に三浦に参陣したのだろうか?江戸とか岩渕とか河越とかに潜んでいたのだろうか?


そもそも、
いったい資高少年の母親は誰なのだろう?三浦の娘、三浦浄心院なのか?

「三浦浄心院はパパ資康の側室であり、正室は元服の頃に娶せられた扇谷関係の娘で、資高少年は三浦とは関係がないから母方の元で暮らしていたのではないだろうか?」と、前にSNS(知人だけとやっている)に書きましたが、これも腑に落ちず。


ここで、パパ資康と資高少年に起きた出来事と年齢を追ってみました。

1476年 パパ資康生まれる(ジジ道灌44才 wobbly
 ↓
1485年 パパ資康元服(9才 coldsweats02
 ↓
1486年 ジジ道灌が扇谷定正の指令で殺される(パパ資康10才)
 ↓
1488年 パパ資康、山内顕定に参陣(パパ資康12才)
 ↓
? ? 年 パパ資康、三浦道寸の娘を娶る←三浦浄心院
 ↓
1498年 資高少年生まれる
 ↓
1505年頃 この数年前にジジ道灌の仇である扇谷定正が亡くなり、パパ資康は江戸に戻る
 ↓
1513年 パパ資康、三浦へ参陣(資高少年15才)
 ↓
パパ資康、帰らぬ人となる…たぶん

あってる?sweat01
(年齢は通説に基づいて計算しました。本当かどうかは調べていません。)


そもそも、
資康は、父道灌が殺されたあとのそんな状況で、江戸で家督相続なんてことが出来たのだろうか?それに、9才で元服!ないことではないでしょうが、チト早過ぎやしませんか?

それを言うなら、資康が生まれたのは道灌が44才の時。ないことではないでしょうし、現代なら普通ですが当時のこと。チト遅くないですかね?やっぱり、資康も養子?


そもそも、
道灌の正室はどこのお嬢さんだったのだろう?

扇谷一門の娘だとか長尾家の娘だったとか様々言われていますが、資康が嫡男だったとして、44才の時の子ですよ(←しつこい。昔の話ですよ、昔の)。とすると、資康が正室の子のわけはないと思うので(いや、絶対とは言えないが)、実子だとしても若い別腹系の女人ではないでしょうかねえ。

あっflair
もしかして形ばかりの正室はいても、女性にあまり興味がないとか…。だとしたら、我が北条氏照どののようですな(娘ひとりいるが真偽は不明)。

素敵~(腐)


な~んてことはナイナイpaper

だって、目黒の誕生八幡神社は、道灌が妻の懐妊にあたり文明の頃(1469~1486年)に筑前の宇美八幡を勧進した神社だと伝わっているそうです。御縁起が史実なら、この時にパパ資康が誕生したのだと思われます。


Img20180401_000641
~慈雲山観蔵院(練馬南田中)。道灌が石神井城を攻め落とし三宝寺を現在地に移転した時にこちらへ移り、末寺とされたと伝わる。奉納箱に、桔梗紋。~


話を戻し、再び隙間のこと。

horse例えば…
ふたつの太田家

資康の家督相続があったのかどうかも含め、⑤の道灌死後に太田が江戸と岩付とに分かれることになる経緯には、何があったのだろう?

北条が氏康の代に江戸太田と岩付太田と両方と縁組をしているということは、どちらも北条にとっては重要な相手だったということだったのだと思うのだけど…。

これは、私にはとても調べられそうもなかでごわすが、徹底的に調べている方達がいらっしゃいもす。ご承認の上、文末に添付しもした。


book今、二人の浄心院殿日海のまとめをブログに書くべく、図書館でアチコチの市史や町史や系図や家記を調べたり、関連寺社へ問い合わせをさせていただいたりしています。

そうしたところ、勝浦正木氏 まで出てきて、勝浦正木は、私のheart01北条氏照どのが取り次ぎをしていたこともあり脳内がますます混乱するばかりなり。


しかし、歴史ファンならご存知のように、系図というものは後の江戸時代に創作されたものが多いゆえ、それだけで判断することは出来ないですよね。系図や新出の史料の裏付けを取るには何年もかかります。もちろん私は取れないですが、プロの研究者の先生方が取ってくださるはずです。

なにとぞなにとぞ、よろしくお願いしもす。


素人のわらわが出来ることといったら…やっぱり、カノ地shipへ行くことかな~。行きたいにゃ~。


beerはみ唐さんの「岩付城と岩付太田氏に関する定説を再考するの記事」https://ameblo.jp/hamikara/themeentrylist-10105261121-1.html

以前、岩付を築城したのは誰かということを地形から考察されているということでご紹介した方のブログです。謎の太田永厳についてもたくさん掲げられています。特に、私の現在の隙間を埋めてくれる家具…ならぬ記事、「太田資高は進駐軍だったのではないか」という仮説は、目からミツウロコ▲▲▲。


wine会計ねこ子さんのブログです。
https://ameblo.jp/zennchou/entry-12363860043.html

同じく、永厳の謎など岩付太田について精力的に調べて、ほぼ毎日書いてらっしゃいます。私は、「巨人東京とおしゃれ神奈川の人間」←by ねこ子さん(笑) なので、どうしても江戸太田だけを考えてしまいます。ねこ子さんのブログにより、岩付太田への注目が深まりました。


bottle以下は、ワテの妄想ブログです。
「北条五代の娘たち②太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続・浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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姫君は安房へ~途中報告/浄心院は氏綱・道寸のどちら娘か

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tvその前に…

オリンピックイヤー2020年の大河ドラマは、明智光秀だとか。東京での開催だから、いよいよ太田道灌や小田原北条の出番だと思っていましたよweep。「北条に決まった!」と聞いたのに、あのガセネタはどこから発生したのだろう(#`皿´)。小田原城は、堀の水まで抜いたのに…えっ?

松陰(の妹)、官兵衛、真田、直虎、西郷サー、と官軍が続きますねえ。やっぱり敗軍や、徳川至上主義が未だ続いている日本では、徳川以前の関東の覇者は大河ではなかなか取り上げてくれないのだね。5年前の八重さんが最後だもの。徳川が創り上げた「江戸時代以前の江戸は寒村だった話」も崩れちゃうしね。


よく、北条は全国区的知名度がないから…とも言われますが、それを言ったら官兵衛さんなんて中央(京の都)周辺や西の方達はご存知かもしれませんが、関東以北の人間では余程の歴史好きでない限りあまり知らない人が多いですよ。直虎さんなんて、ましてをや。

明智光秀は前半生が不明でしたが、最新の研究では判明したのかしら?いっそ、前半生は『戦国自衛隊』の伊庭陸尉でやってくれたら面白いと思います。原作では、あれは実は光秀だったでしょ?


そんなこんなで、さて…

Img20180410_204039_2
~車窓より、浄心院日海が眺めたかもしれない安房の海。勝浦と鴨川の間あたり。~


書き散らしております、太田家に嫁いだ「浄心院日海」についてご興味を持ってくださった皆様。

浄心院日海は、北条氏綱の姫か?三浦道寸の姫か?

足跡を辿り、安房小湊「正文寺」にある浄心院の御位牌をお参りしてまいりました。


wineしばらく更新をしなかったので、どうした?というコメントやメールをいただきました。安房を訪ねた直後より仕事の配属先が変わり落ち着かず、安房での様々な妄想が脳内でまとまりきれないでいます。

いま暫し。


「続・浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「里見へ走った公方の姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-82f7.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html

「南総里見ファンタジーツアー 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-c2c4.html
「南総里見ファンタジーツアー 2 稲村城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e1c8.html
「南総里見ファンタジーツアー 3 久留里城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-96fd.html
「南総里見ファンタジーツアー 4 現代の館山城も辛い」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-adbe.html
「南総里見ファンタジーツアー 5 戦国人たちは消えてゆく」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-c2ec.html

「弘治2年の「北条 vs 里見の海戦」は本当にあったのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/vs-05c7.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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安房編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

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シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室】


Photo

~安房「威武山 正文寺(しょうぶんじ)」~


なんとまあ!
そなたも、よくぞここまで わらわを追ってきたものじゃ…

と、浄心院日海様はおっしゃった。


日蓮上人の生家だったという「大本山誕生寺」の末寺「正文寺」は、誕生寺のある安房小湊から外房線で30分。安房鴨川からは内房線で20分位の南三原駅を降ります。


安房小湊といえば鯛の浦fish。少し前までの坂東の民なら誰でも歌えた♪ゆったり たっぷり の~んびり 旅ゆけば~♪ のホテルmoon3。安房鴨川といえば、シャチやセイウチのショーの鴨川シーワールド。千葉はもちろん東京や茨城(埼玉あたりもかな?)の人間なら、子供の頃に、いや、大人になってからもドライブがてら何度かは遊びに行ったことがあるはず。

そういえば、鴨川から少し行ったところに、フラミンゴのショーや、孔雀が次々と崖の上から突き落される…ちゃうちゃう、飛翔する行川アイランドというアミューズメント施設がありました。今は閉園しているそうですね。


威武山正文寺は、そんな外房らしい真っ青な海から車で8分程内陸に入った、真っ青な空の下に立派な仁王門を構えた大きなお寺でした。勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興したお寺だそうです。時忠の法名が「正文」。威武院殿正文日出居士なのだそうです。


2
~本堂、浄行菩薩堂、祖師堂などの堂宇のほかに、中世の石塔群や五輪塔などがあるやぐら、本堂には勝浦正木氏歴代の御位牌、裏山の「お塚」には旗本正木氏累代の墓や三浦道寸の墓(供養塔)などがある。~


「浄心院日海」という女人は、北条氏綱の娘か三浦道寸の娘か。もう1年以上、あーだこーだと考えておりますが、いっこうに光の筋が見えません。

そりゃあ浄心院が北条の娘だろうが三浦の娘だろうが、大きな歴史の流れにはまったく影響ないことですが、どうしても突き止めたい。浄心院様からも、「わらわを探してたもれ」と言われている…ような気がする。勝手に。

こうなったら、浄心院日海の御位牌があると聞く勝浦正木の菩提寺「正文寺」へ参るしかない!と、ヒノキ花粉の飛散マックスとなった4月の初め、安房へ向かいました。


Img20180317_150642
~何度も出している関係者のみのザックリ系図をもう一度(資高が正室の子というのはマリコ・ポーロの妄想。たいがいは、三浦浄心院と資康との間の子とされている。)~


▲ 登場人物は、ふたりの浄心院日海&それぞれのハズバンド&息子

三浦浄心院
父:三浦道寸
夫:太田資康(太田道灌の息子←諸説あり)伊勢宗瑞の三浦攻めの時に妻の実家である三浦へ加勢し、そこで果てたとされている



北条浄心院
父:北条二代当主・氏綱
夫:太田資高(↑の太田資康の息子)江戸にて没

ヒントになりそうなその息子
母:北条浄心院
父:↑ の太田資高
安房へ行き里見に付き、安房にて没(菩提寺は誕生寺)


▲ 今までの妄想を時系列で整理する

文末に添付している過去のブログ記事に、グダグダと書いてはおりますが要約すると…


①「北条五代の娘たち」の足跡を順番に辿っていて、太田資高に嫁いだ氏綱の娘「浄心院日海」の番になる


②夫の資高の記録が少なく不思議に思う


③『太田家記』やらその他諸々手あたり次第乱読していたら(もちろん口語訳)、三浦道寸の娘も同じ法名だということを知り、ドびっくり~。


④ それにしても父親の嫁息子の嫁が同じ法名ということがあるだろうか?と疑問を持つ。


⑤ 『三浦系図伝』『正木氏先祖書』などなどなど引き続き乱読していると、北条浄心院についても三浦浄心院についても同じようなことが書かれてあり(ご興味ある方は先のブログ記事引用しているのでご参照あれ)、いったいぜんたいどういうこっちゃ?と混乱。

チビット違うのは、『太田家記』には、北条浄心院が夫と別の菩提寺になった いきさつ などが詳しく書かれていること。

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~『旗本正木氏先祖書』。ピンクのマーカーのところに三浦浄心院が。~


⑥ そして、衝撃の事実(←ちとオーバーかも)を見つけて、たまげる。

なんと、三浦浄心院と北条浄心院の没年月日と没した場所(江戸)と菩提寺(江戸)が同じだったのだ!coldsweats02


が同じ法名で、同じ日に、同じ場所で亡くなるなんてことがあるだろうか?いや、ない!ということは、どちらかの人生が無いことになっている。波乱の戦国の日々を一生懸命生きたであろうに、それはあまりに可哀想だ。


⑧ 東京の白山にかつてあった浄心院の菩提寺「浄心寺」の事務所に問い合わせさせていただく。かつての御住職は浄心院日海が二人いたことなど一連の話をご存知でしたが、過去帳などに記載が残る浄心院日海の像はすでになく、御位牌は後世に作られたものであり、はっきりしたことは不明だとのこと。


三浦浄心院の夫である太田資康と道灌との間柄や、道灌誅殺後の太田家の家督争い(?)& 江戸太田と岩付太田の関係、内房正木氏成立の謎や、家康の側室であったお万一派&英勝院お勝一派による系図創作疑惑などなどへと興味が広がり、カオス妄想は収拾がつかなくなる。


⑩ 初期の目的に戻り、マリコ・ポーロ安房へ渡るship


果たして安房「正文寺」にある「浄心院日海」のお位牌は三浦浄心院のものなのか?北条浄心院のものなのか?

そして、マリコ・ポーロがそこで見たものは!?なんちゃって。

次回へつづく…


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続 ~ 浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

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シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室】


4_2
~安房「正文寺」は、勝浦城主だった正木頼忠が父時忠の隠居所跡をその菩提寺として中興した。~


その1ヶ月前の3月初旬。葛山へ嫁いだ北条氏綱の娘を追って「御神渡り」を拝んだ諏訪湖の湖面は凍っていた。

うって変わって、抜けるような蒼空の下の真っ青な海を車窓に見ながら、太田に嫁いだ同じく氏綱の娘を安房に追う。


まずは、前回のブログ記事の安房編①を思い起こしてくださると助かりまする→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html


生まれた家とハズバンドは違えど、同じ法名、同じ人生、同じ没年月日として記録されている北条浄心院(氏綱娘)と三浦浄心院(道寸娘)。それは、どちらかの人生が無かったことになっているということでチョット可哀想。と、余計なお節介心にかられて足掛け3年。

どちらが「浄心院日海」なのか。江戸(東京)では手掛かりがつかめないため、どうにも我慢が出来ず、鎌倉から里見へ走った(さらわれた?)青岳尼の如く海を渡りship…ウソウソ、外房線と内房線を乗り継ぎtrain、「浄心院日海」の御位牌を拝ませていただくべく安房南三原の「正文寺」をお訪ねしました。


広間に入るなり、正面にドドーン と大きな御位牌が!正文寺さんへは事前にお電話でお願いをさせていただいておりましたが、出しておいてくださったのですね。嬉しい~~です。

以前、早雲こと宗瑞の娘を追って伊豆修善寺の「金龍院」さんをお訪ねした時も、幻庵の御位牌を手前の机に出しておいてくださいました。お寺さんて、ありがたいです。


それが、こちらにござります。

Photo
~大きさが分かり易いように、お供えにとお持ちした近江の名酒「道灌」の四合瓶箱を横に置いてみた。北条・三浦、どちらの娘にしても、太田家に嫁いでいる(父と息子)ので、「道灌」を。~


おぉぉ!
と、まずは手を合わせ、それからジックリと拝見。


3
~見えますか?写真は御住職のご許可をいただき掲載~


先にお電話で伺うまでは存知ませんでしたが、浄心院日海ひとりの御位牌ではなく、正木氏の御位牌をのちに一緒にしたものです。浄心院の法名は、累代の当主と一緒にあるのですよ。

江戸時代になって暫くしてから、紀州のお殿様 - たぶん頼宣(生母のお万は開基頼忠の娘で徳川家康の側室)- が、まとめられたそうです。


ピンクのが「浄心院日海」です。わお~!!

会えましたね~、浄心院さまぁ。お会いしたかったですぅ crying


恥ずかしながら正木氏のことはほとんど知らず、こたびは俄か仕込み。どれがどなた様やら分からず、御住職さんに一人一人教えていただきました。

もう一度、手を合わせます。


前回のブログでも触れた江戸白山の浄心院菩提寺の 浄心寺(今は廃寺)さんと同じく、御住職は二人の浄心院日海についてとてもご研究をされてらっしゃいました。

お話しを始める時、お互い見せ合った自作の系図が、向きも、北条家・三浦家・太田家の配置もまったくそっくりで、あらら~ happy01って。


御住職とひとしきり、二人の浄心院についてお話しをしました。二人の浄心院について、トックリとお話し出来た方は初めてでしたので、とても楽しかったです。

そのあと、本堂で御本尊様をお参り。そして、勝浦城主の正木氏5人の立派なお位牌もお参りさせていただけました。


お寺の裏山には「お塚」と呼ばれる正木家累代のお墓や、三浦道寸のお墓(供養塔?)があるそうですが、なんせ虫がまったく、本当に、思いっきりダメなワテ。真冬だったら行けたのににゃ~。残念。

それと、もっと正木氏のことを勉強していったら、正木一族の様々な謎についても御住職とお話しできたかもしれない。重ね重ね、残念。


で、結局、浄心院日海はどっちだったのって?

think………

分かりもはん。


北条・三浦、どちらかどころか、浄心院日海の御位牌が安房にある本当の理由さえ、オイには分かりもはん。

いえね paper旦那、奥さん、おじょーさん、お坊ちゃま。もうひとつ何か決定打がないかどうか、この一ヶ月考えて探していましたが、ありまへん。タイムアップで、ブログを更新しました。

すべては、安房の青い海のみぞ知る

ってことで。

正文寺の御住職様、ありがとうございました。


fish誕生寺


Photo_3
~誕生寺の太田堂。ピンクの矢印は太田康資のお墓(供養塔?)~


帰路、海の幸で遅いお昼をいただきがてら、正文寺の本山(本山でいいのかしら?)である小湊「誕生寺」をお参りしました。

誕生寺は、北条浄心院の息子、太田康資の菩提寺です。康資は北条から離反し里見につき、永禄7年に国府台で戦死しました。


Photo_5
~太田堂から望む安房の海~


江戸に菩提寺がある「浄心院日海」の御位牌がなぜ安房にあるのか…。


● その御位牌は三浦浄心院のもので、三浦が没落した時に、三浦浄心院を含む一部の一族が旧領のあった安房へ逃れてきたという話があります。三浦浄心院は、正木の養女となり(前回の記事の写真)、安房で亡くなり弔われたのでしょうか。

しかし、その話は今では時系列が合わないため違うとされているようです。また、もし安房で亡くなったとしたら、菩提寺が江戸にあるのも不思議です。


はたまた、その御位牌は北条浄心院のもので、里見へついた息子の康資が母の御位牌を江戸から持ってきたのでしょうか?しかし、それなら何故、正木氏の位牌に一緒になっているのでしょうか。


皆様もそうだと思いますが、旅の終わりに、こうやって当時その人が見たのと同じ景色を眺め、その人が歩んだ人生を 勝手に bleah想像しながら想いに浸るのは、それはいいものですよね~。

自分へのお土産に、誕生寺の門前の酒屋さんで 鴨川の地酒を買いました。家に帰って飲みながら、タイムトリップの余韻に浸れますね!


こたびはこれまでに。


「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「続 ~ 浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3016.html

「安房編の前編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html

「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html


wine以下、今までの北条五代の娘たちの記事です(それぞれに続編・番外編などあり)

・初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html

・二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html
「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

・三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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『新九郎、奔る!』 ゆうきまさみ

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今日、6月23日、八王子城落城。

八王子城と城主北条氏照については、9年前に当ブログを始めた時から書き尽くして参りましたが、八王子城は「戦国の終わりを告げた城」 by 故椚國男 です。

八王子城は、小田原開城のとどめとなりました。(今の暦では、今年は8月4日になります。)


そんな日に、北条の始まり…いえ、始まる前から を描いたコミックのご紹介を。

「月間!スピリッツ」小学館 に3月から連載されている漫画 『新九郎、奔る!』。お!皆様すでにご存知でしたか!


文正元年(1466年)山城国。
我らが北条早雲こと伊勢千代丸(新九郎)クンは11才。年齢は新しい説をとっていますな。

賢く、物怖じしない正義感の強い少年に描かれています。お姉ちゃんの、後の北川殿も、勝気で好奇心旺盛な女の子。


そんな千代丸くんが、父上や叔父上や兄上や北川殿が暮らす京へ向かうことになります。

都は応仁の乱前夜。千代丸クンは、そこで細川・山名らと幼いながらも丁々発止…とまではまだいかないようですがsweat01、今月号(6/26発売)は、いよいよ応仁の乱勃発です!


作者の ゆうきまさみ氏は伊勢宗瑞を敬愛されてらっしゃるそうで、内容は本格的。セリフが多く、応仁の乱をよく知らない私にとっては、一度読んだだけでは把握できず、何度も読み返しています。

これは、まさかの 初の大河ドラマ原作がマンガ となるかもしれない!それは、原作がなく、支離滅裂な大河ドラマを制作するよりは遥かに良いし。


ここに絵を載せるわけにはいかないのが残念ですが、成長した新九郎青年はりりしいイイ男。

単行本になるのを待とうと思っていたのですが、連載が始まる3月号に新九郎さんのクリアファイルのオマケが付いていたので購入。そうなると、続きがどんどん読みたくなり、そのあとは電子書籍で読んでいます。


八王子城戦で果てた人々に、合掌bottle


「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「報告▲八王子城の発掘調査見学会」御主殿の地は焼けていた
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


horse以下、八王子城落城について書いた記事の極一部です。ご再読賜れれば嬉しいです。

「八王子城落城、氏照の残・念」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-4eae.html

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/420-9797.html

「今日、八王子城 落ちる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-0e49.html

「八王子城、戦い済んで日は暮れて・・・」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-1bb4.html

昨年の番外編
「檜原の残影、横地監物と武田の松姫さま」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-f195.html

もっと番外編 「城跡の幻影」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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今日は、428年目の小田原開城の日

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マリコ・ポーロ

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~小田原の「負の遺産」石垣山より。この日の小田原は けぶっていた(2018年6月末)~


今年も7月5日がやってきました。小田原開城の日です。

何度も同じことを申して恐縮ですが、小田原開城の日にタイムトリップするには、石垣山から小田原城と相模の海を眺めるのが一番だと私は思うのです。だから、7月に入ると毎年石垣山に登ります。

俯瞰する城内や総構には幟も櫓もなく、海には九鬼の水軍も加藤の水軍も長宗我部も脇坂もいません。でも、行かれてみてください。見えるでしょう?428年前のそれらが。聞こえるでしょう?428年前の鐘や太鼓の音や兵馬の嘶きが。


我らが北条軍団軍団長、我が八王子城主 北条氏照が陣を張った早川口もすぐ真下によく見えます。

氏照は早川口の土塁の上にシッカと足を踏ん張って立っています。ハタッと石垣山を睨み拳を振り上げて歌う声が風にのってくるはずです。


♪ く~れないーに そーまぁった
こ~の オーレーを
な~ぐさめーる やーつは
も~ いない ♪



いや…違う。


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失礼いたしました。

そんなこんなで、一年ぶりの石垣山です。428年前にタイムトリップしたのは、某北条研究者の方・八王子衆の重鎮で城郭研究の紳士・北条仲間の相模の武将、妄想族のマリコ・ポーロの計4人。

某北条研究者の方は、この日の午後に小田原での御講演を控えてらっしゃいました。天正地震と小田原攻めとの関係をお話しされたのですが、とても興味深かったです。


6月後半の八王子城での八王子衆加藤哲先生による御講演に続き、この日の石垣山の登城と某北条研究者の方の御講演で、ここのところ「北条五代の娘たち」に浸りきっていた気持ちが一気に天正18年へ持っていかれました。


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石垣山はとても整備の手が入っていて、石垣が良く見えるようになっていました。しかし、見えれば見えるで崩落の進み具合もバッチリ分かり心配なところです。

でもね、まあ、エエわ。
しょせんは、よそ(秀吉んち)の城だもんね~。すみもはん、小田原の関係者の方々 bleah


11日は、氏政兄上・氏照が天に召された日。現代の小田原では、「北條氏政・氏照墓前祭」が行われます。

では、こたびはこれにて。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


「天正18年7月5日「小田原開城」 アーカイブ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-c464.html
「小田原北条最後の日~かくて小田原は開城した」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-adb2.html
「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「天正18年、そして小田原は囲まれた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-918d.html

「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html

「戦国フィナーレを望む 石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/the-b831.html
「堀秀政の小田原の墓」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bf85.html
「「関白づくし」の石垣山一夜城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ab53.html

「天正18年の「石垣山一夜城」を歴友と歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-017b.html
「石垣山で歴友たちと天正18年を偲んだ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-e888.html

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-33dc.html
「小田原攻め、徳川方の陣場めぐり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5964.html


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江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?

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シリーズ 北条五代の息女たち
二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室~江戸編】


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~文京区白山には、浄心院様の菩提寺だった「浄心寺」の名が坂の名として残っている。~


先のブログ記事「北条五代の娘たち~浄心院はどっちなのか?」で混沌としていた、浄心院殿日海は「北条の娘か三浦の娘か」について、その後もう少し調査(妄想)をしてみましたところ…


衝撃の事実を発見!!

なんと、2人の浄心院殿日海の 没年月日が同じ(天文19年9月14日)だったのです。

北条浄心院 の没年月日は、『太田家記』より
三浦浄心院の没年月日は、『三浦系図伝』より

ドびっくり~coldsweats02


天文19年…か。北条氏康が山内上杉の平井城を攻め、翌20年に落とした頃ですな。

それにしても、自分の正室と父親の側室が同じ日に亡くなって、法名も同じなんてことがあるかね?氏政の母と正室は同じ日に亡くなっていますが、それは小田原籠城中のこと。こちらはそれとは違いますしねえ。


wine二人の浄心院とその夫君たちの後半生

核心に触れる前に、まずは時系列を整理してみました。辿るのがメンドクチャイ方はずーっと下方の、「太田家記」の項へどうぞ。


(登場人物)
北条浄心院=北条氏綱娘、太田資高の室
三浦浄心院=三浦道寸娘、資高パパ(養父とも?)資康の側室(たぶん側室)


▲永正10年/1513年
三浦道寸の娘である三浦浄心院の夫・太田資康、三崎にて討死。
(資康の死亡については時期・状況共に様々説があるが、いずれにしても永正10年よりは以前。)


~妄想①~
三浦浄心院が嫁いだ頃、夫の資康は江戸にいたはず。資康が三崎の道寸の元へ向かった時、一緒に行ったのか?→道寸の娘だから行ったと思われる。

また、
資康の子である資高は、その時15才位。江戸へ置いていかれたのか?どこでどうしていたのだろう?


氏綱に内応したのは、「祖父道灌殺害の件で扇谷に恨みを持っていたから…」とも言われているけれど、だったら何故に父親と一緒に三浦へ行けなかったのか?実は、やはり本当の父子ではなかったからなのか?

山内・扇谷がらみの何かしらの事情なのか?三浦についたということは、山内についたということですもんね。

あ!coldsweats02
まだ言わない……テンテンテン

▲永正13年/1516年
三浦道寸、自害。次男・時綱は安房に逃れる(館山市資料より)。三浦浄心院も共に安房へ渡る(三浦系図伝より)。


~妄想②~

ちょっと待てよ。

三浦浄心院の兄弟である義意が三崎で討死したのは20才頃。例えば三浦浄心院が義意の姉だとして、25-6歳。となると資高とは10歳位しか違わない。いくら昔とはいえ、資高は三浦浄心院が産んだ子ではないですな。

妹だとしたら、10代か。もっとあり得まへん。

ということで、先のブログ記事に載せた系図をもう一度。

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▲大永4年/1524年
資高が北条氏綱と組み江戸城は北条の物となる。資高は江戸城香月亭へ入る。

▲年不明
氏綱の娘である北条浄心院、資高へ嫁ぐ

▲享禄4年/1531年
北条浄心院、康資を産む

▲天文16年/1547年
資高、江戸にて死去

▲同19年/1550年9月14日
三浦浄心院北条浄心院、両名共、江戸にて死去(太田家記/三浦系図伝)


次に、『三浦系図伝』と『太田家記』を見てみましょう。

どちらも、概要ではなく、どう書かれているか見てみたくて仕方がなかったのですが、なかなか図書館へ行けないでいたところ、歴友師匠殿が関連箇所を抜粋して教えてくださいました。かたじけない。ありがとうございます!


wine三浦系図伝

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~三浦氏の「新井城」。三崎の要害についても諸説あり。~


道寸の娘について、以下のようにあるそうです(歴友さんのをコピペさせていただく)。

「(義同)女子
嫁太田道灌一男資康、生新六郎「康資」後号武庵、天文十九年九月十四日死于江戸、法名浄心院日海、子康資建寺置像、号浄心寺今猶在小石川」


ふむ。
江戸にて死去か。小石川の「浄心寺」が菩提寺とありますな。浄心寺は、太田道灌開基「法恩寺」の末寺です。

浄心寺はかつて平河口にあり→本郷に移り→最後は白山でした。現代の感覚でいうと、小石川は、そのどこからも少し離れていますね。大きな区分の中ではまあ同じエリアとも言えますが。


また、何故に太田道灌ゆかりのお寺で弔われたのでしょうか?

太田さんちに嫁いだから?でも、三崎に行って、安房に渡った(らしい)三浦の娘を、江戸の真ん中で誰が祀るのだろうか?


そんなことより!
そうです。資高の母でないどころか、この系譜からは資高さんが抜けているではありませんか。資康の子が、孫である康資ということになっていますね。ですよね?読み方合ってます?

ちと、アヤシイ~の~。


wine太田家記

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~現在は日暮里にある資高開基の「本行寺」。当時は江戸城平河口にあった。浄心寺と同じく、法恩寺の末寺である。~


以下、同じく歴友さんからいただいたもののコピペ。

一、資高公奥様ハ北条氏綱の息女ニテ、天文十九年九月十四日江戸城にて御死去、万好斎公と同して法恩寺へ御葬送可有之処、平川口に別之寺を立、彼寺へ御葬送有之、是ハ常々御夫婦不和之由申伝候、夫故新六郎康資公へ御存生之内より被仰置候付、別の寺へ御葬被成候也、彼寺浄心寺と申候、此寺今ハ本郷丸山ニ有之候、

浄心寺書物ニ有之、
「浄心院日海比丘尼 天文十九年庚戌九月十四日施主 太田新六郎康資
本願徳成坊日成敬白」
如此之書付有之、日海様木像之御影有之候


ふむ。

こちらには、浄心院日海は北条氏綱の娘で、資高の奥様であり、(三浦の娘と同じ)江戸で亡くなり、(三浦の娘と同じ)子の康資が浄心寺という菩提寺を建立して葬送とありますな。お寺の場所は、平川口→本郷丸山。まあ辻褄は合うか。


資高さんの道名と菩提寺もこれで分かりました。

道名は万好斎。菩提寺は「法恩寺」。繰り返しますが、法恩寺は太田道灌の開基です、浄心寺は法恩寺の末寺です。


そして、面白い…と申しては失礼ですが、先立った夫の資高と同じ平河「法恩寺」に葬られるところ、息子の康資が、母浄心院の遺言により別の寺を建てたとな。それが、「浄心寺」だと。

なぜ別の寺へという遺言なのかというと、「常々御夫婦不和…」 だとさcoldsweats01


wine混同

以上のことから妄想するに、やはり浄心院日海は北条の娘で資高の正室である線が強いのではないかと、私は思いたい。だって、そもそも三浦さんちの系図に資高さんがいないんだもの。

となると問題は、安房の正文寺にあると聞く浄心院の位牌ですよね。


三浦系図伝によると、浄心院は江戸で亡くなっています。三崎の戦いの際に安房へ逃れたはずの三浦浄心院は、何故に江戸で亡くなったのだろうか?江戸で亡くなったのに、何故位牌が安房と江戸の両方にあるのだろうか?


~妄想①~
安房の位牌は三浦浄心院のものではなく、北条浄心院 のものではないでしょうか。

北条浄心院の息子の康資が安房でも位牌を持ったのではないでしょうか。パパとママは不仲だったから、マザコンの康資(←ウソbleah)が、ママのだけ作ったとか。

それが三浦系図と混同され、いつの間にか三浦浄心院のものだとなってしまっている…とか?


~妄想②~
それとも、安房の位牌はやはり三浦浄心院のもので、お名前が不明だったので、いつの間にか浄心院殿日海と混同されてしまっているとか。


なーんて。

皆さんはどう思われますか?


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~嘉永時代の地図。緑のの中に「浄心寺」がある。ピンクの☆のあたりに現代の白山駅がある。~


先日、どこでもいいから、なんでもいいから、浄心院が生きた証の場所に立ってみたくて、トップの写真の「浄心寺坂」を歩いてみたのです。

(坂の名の由来となった浄心院様の「浄心寺」は日蓮宗。現在はお寺はありません。近くに同名の浄土宗のお寺があるのでお間違えのなきよう。)


大きな歴史の流れの中では、浄心院が三浦の娘だろうが北条の娘だろうが、どうでもいいっちゃあいいことです。どうでもいいことではあるのですが、でも、それぞれにそれぞれの人生を歩んだはずの二人の女人が、その人生を混同されたりしていたらお気の毒だと思うのです。


それはこのお二人に限ったことではなく、先の崎姫と山木大方にしても、氏綱室の養珠院と朝倉娘の養勝院にしても、北条ゆかりの女人達だけではなく他のあまたな女人たちも同じこと。ほとんどが、かつての敵の元へ嫁ぎ、実家から与えられたミッションを果たすべく大変な思いをしたことでしょう。

彼女たちにとっては余計なお世話だろうと思いつつ、今日も足跡を辿りながら妄想しておる次第でござります。


こちらが最初に書いた混沌のブログ記事です↓
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~江戸城を取り戻せなかった太田資高」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「安房編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html

萩真尼 こと マリコ・ポーロ


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恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)

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マリコ・ポーロ


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~カトケン市長さんのご挨拶~


7月11日。
北条氏政・氏照の命日が今年もやってまいりました。

北條遺跡顕彰会による「北條氏政・氏照墓前祭」には、こたび久々に加藤市長もお出まし。観光課さんによる北條パンフの配布とグッズ販売も出て、今までになく盛況でした。


今回はお寺さんが変わりましたね。今までは、墓所を管理する永久寺さんでしたが、今年は「りんこう寺」さん??(お寺の名前を聞き洩らしてしまいました)。

読経のあと住職さんが尺八を奏してらっしゃいました。大伯父の幻庵殿も一節切の名人。兄弟の供養になったことでしょうねえ。

パフォ~note


我が八王子城からも、旧守る会の残党衆で今は他の歴史活動している重鎮達や、知人の氏照ファン5‐6人の方達のグループさん、また、残党衆のおひとりが関わってらっしゃるお城関係の某メディアもいらしていて、これまた照どのも喜んでくださったことと思います。

祭壇には、それぞれが持参して御供えした銘酒「氏照」と「八王子城」が並びます。映えていたのか、氏照ゆかりの銘酒は小田原タウンニュースにもバッチリ写っていました。

しかし、こうなると「氏政」とか「大途」とかの、兄上様のお酒も造らずばなるまいて。「火牛」がなくなったのが残念なり。


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~観光課の出店?その法被(ハッピ)が羨ましいです。もっと安い生地とプリントでいいので販売してくだされ。~


顕彰会さんによるこの墓前祭は昭和28年から続いており、それにも歴史があります。どうぞこちらの記事をご覧くださいませ。→http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-312a.html


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~高野山奥の院の小田原北條家墓地にある、北條顕彰会さんが建てた墓碑~


顕彰会さん、いつも銘菓「虎朱印」をご用意くださり、大変ですよねえ。ありがとうございました。お参りした人達に配られた伊勢宗瑞こと北条早雲の団扇は、今年だけ特別です。

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合掌…


「北条氏政の首級(みしるし)はどこに・・?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-470a.html
「北条氏照の首級(しるし)はどこに‥?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-df65.html

「それからの後北条一族」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-93b0.html

「北条一族の高野山 1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-f00e.html
「高野山、小田原坊」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/3-6cea.html

「北条家、狭山藩邸跡」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-5c4c.html
「北条氏規の大阪の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-361c.html

「「江戸時代の北条家、東京の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-72d6.html
「北条家 下屋敷の「北条坂」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-6434.html

「北条氏政は、上洛準備を進めていた!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5154.html
「北条氏政の「汁かけ飯」は後世の創作」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e356.html
「兄上様(北条氏政)からのお届けもの」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-d92a.html


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北条の謎の娘「高林院」と、文化年間の歴史研究者

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マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち~番外編


第二の謎の女人「高林院」を調べるために、文化年間の地誌『許我志』を読みました。その地誌を編纂した方に グッと きたので、ご紹介したいと思います。


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~古河。足利ヨッシーの鴻巣御所跡~


先日、北条師匠から矢文をいただきました。その中で気になったことがありました。

▲ 黒田基樹 『戦国北条家一族事典 2018.6』 に、芳春院殿(氏綱娘・古河公方足利晴氏室)=高林院 とある。
▲ その引用先は、『北条氏康の子供たち 2015.12』での長塚孝氏「浄光院殿-足利義氏の室」である。


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高林院は、千葉親胤に嫁いだ氏康の娘だとばかり思っていたので驚きました。

なぜなら、
「高林院は氏康の娘で、早くから出家しているため、早世した千葉親胤の室と思われる『関八州古戦録』
と書いてあるのを読んでいたからです。


『…子供たち』も読んではいたのですが、今は氏綱の娘を調べているので、氏康の娘についてはザッとしか読んでおりませんでしたsweat01

ブログ記事「北条五代の娘たち」で、芳春院はすでに書き終えてしまいましたが、娘たちの足跡を辿っているマリコ・ポーロとしては、これは放っておかれません。ちゃんと読み直しました。


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ありゃ~。ほんまやねん…。


芳春院=高林院は、文化5年の古河の地誌 『許我志(こがし)』にあるそうですな。

文化5年!古いっ!

そして、そこには氏康の法名・死去年、氏康の菩提寺、<芳春院・はるる夫妻>と次世代の<浄光院・ヨッシー夫妻>との混同、などのいくつか誤りと思われる箇所があるとも書かれています。


内容に疑問点がある『許我志(こがし)』なのに、芳春院=高林院のところは信じていいのだろうか?また、それを『戦国北条家一族事典』で、「高林院は氏康の妹芳春院殿のことであることが明らかになり」 としてよいのだろうか?とも思ってしまうところですが……ごにょ。

これは自分でも調べてみよう(と言ったって、ワテなんかに分かるわけもないですが)と、図書館へ Go!dash『許我志(こがし)』を見てみました。


先に書いた、浄心院が氏綱の娘だろうが三浦道寸の娘だろうが歴史の流れの中ではどっちだってなんの影響もないのと同じく、芳春院が高林院と同一人物だろうが別人だろうが、どーでもエエことではあります。

高林院という女人が大きなことを成していて、それは古河公方の正室の芳春院だった!…な~んてことなら別ですけどね。それは、にゃい。


でもね。


book『許我志』を編纂した 念斎 という方

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~『許我志』。一部分コピーしてきた。~


私が申すまでもなく、「許我」は「こが」のこと。つまり『許我志』とは、古河誌のことです。『許我志』は、古河市史の 『古河市史資料別巻』に載っていました。そこには『許我志』についても書かれていました。


編纂者は、善(原)公通三右衛門。号は念斎という幕府の御徒歩組の方で、儒学者としても著名な人だったようです。

念斎さんは古河藩士でもなく、御徒歩組ゆえ江戸住まいで古河の人でもなかったのですが、お祖父さんまでが古河藩士だったそうです。その縁で、江戸の古河藩邸によく出入りしていたそうです。学者ですし、元々歴史が好きで、藩主や藩士たちから古今の古河の話を非常に熱心に聞き取り、研究を重ね、『許我志』を完成させたとのことでした。


『許我志』はいくつか写されたようで、その写しの跋(あとがき)に、念斎はこう記しました。古河市史に載っている口語訳をそのまま写します。


この本は前に自分のつくったものを写したもので、ここで今見ると、はずかしい気もするが、また喜ばしくもある。

古河は土地としても古来有名であり、人物も名士が多く出ている。自分の記したのは一部分にすぎないが、それを人々に見せないでおけば、そのままで終わってしまう。このように同好の人が写して広く読まれるようになれば、他日誰かが補って立派なものにしてくれるであろう、それを期待する。


当時ブログがあったらねえ…って、ちゃうちゃう paper格が違う。


父祖の地である古河がとっても好きだったんですねえ。真摯な方ですよねえ。センセーショナルなことを書いて自分をアピールしようとか、単なる自己満足とかではないんですねえ。

歴史を伝え残さなければという念斎さんの想いに グッと きてしまいました。念斎さんの『許我志』のアラを確認しに図書館へ行ったような自分が恥ずかしくなりました。


他日誰かが補ってくれることを期待する…。

念斎さんのような前時代の歴史研究者の想いを以後のたくさんの歴史研究者の方達が引き継ぎ、また、今の研究者の方達の想いが未来の歴史研究者の方達に引き継がれていくのですね。

念斎さんの時代は、一から調べなければならないです。なんの規制もなく行きたい所に行けて、調べたいこともネットや図書館で簡単に調べられ、素人の身で あーだこーだとアラを突いていられる今の時代が、念斎さんはさぞや羨ましいことだろうと思いました。


で、肝心の、芳春院=高林院は?

分かりもはん!(←二人の浄心院日海と同じやん)


ま、同一人物でも別人でもいいじゃあないですか、と思いながらも、もし別人だったら、高林院の人生が消えてしまったことになる。それは可哀想。でも、どうやって調べたらいいのかのう…。


「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「古河公方の古河を歩く~前編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-de53.html
「古河公方の古河を歩く~後編」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-8375.html

「後北条一族の陰謀、公方の御座所「葛西城」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fdbc.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)

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マリコ・ポーロ

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~炎天の御主殿に銘酒「氏照」bottleを捧げる(撒いているの)図~


サル8月4日は今年の旧暦6月23日。我が八王子城が落城した日です。


このところ北条当主の娘たちに捉われ過ぎ八王子城とはご無沙汰しておりますが、「旧守る会」の残党衆としてはこの日ははずせません。旧守る会があった頃は、皆、都合がつく限り毎年この日に集まり「落城忌」を営んだものでした。

それでも昨年までは数人の残党衆で城山川のほとりで 直会(なおらい)を行っていました。ガイドさん達の宗閑寺での法要も、お寺さんの都合でなくなったそうです。


今年は一人か、チト淋しいぞ…と思っていたら!北条友の武将さんが参陣。いと心強しrock

その上、途中、残党衆たち何人かと出会いました。皆、一人でバラバラと来ていましたが、やはり八王子城を思う気持ちは皆同じ。良かった~。氏照や八王子城戦で命を落とした人達の、少しは供養になったかな。


恒例だった、般若心経を唱えながら武将と共にお参り。そして、献杯(銘酒「氏照」)。

今までで一番暑かった「落城忌」を終えました。


「八王子城~落城忌その1 チョット怖い?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6bb4.html
「八王子城~落城忌 その2 幻庵の一節切はこんな音色?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-3914.html
「八王子城その1北条氏照 夢と覚悟の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-c46c.html
「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「城跡の幻影~八王子城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-75cf.html

「【追悼】 椚國男先生」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-80b8.html
「【追悼】 北条氏照に会いに行かれた八王子衆」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-072c.html
「「八王子城とオオタカを守る会」が終わりました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-bc9f.html

「八王子城の「庭園遺構」がより凄いことになっています!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-8c21.html
「報告▲八王子城の発掘調査見学会」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cac0.html


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「太田道灌の軍旗」 埼玉県立歴史と民族の博物館

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マリコ・ポーロ


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~もんじろう君が展示の見方のアドバイスをくれる~


その前に。
北条綱成(つなしげ)のパパ伊勢(櫛間)九郎が、宗瑞の息子、つまり氏綱の腹違いの弟だということはないだろうか…。

「伊勢」という名字をもらうということが不思議でした。また、「北条五代の娘たち」を書いていて、氏綱が本来なら有力他家に嫁がせるであろうところの娘を綱成に与えたことも、ずっと腑に落ちませんでした。

6月に出た『戦国北条家一族事典』黒田基樹著 を読みフト思い付いたことですが、もし綱成が氏綱の甥なら腑に落ちます。最初からの綱成の特別扱いも、浅倉が娘を伊勢九郎殿に嫁がせたことも納得です。なんの根拠もない妄想ですが…sweat01


さて、本題。

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~展示資料として「翻刻集」
もいただける。~


「道灌びいき」の会でご教授いただいている、太田道灌研究の尾崎孝先生のブログで、開催中の企画展「古文書大公開!みる・よむ・しらべる埼玉」にて
道灌の軍旗が公開されていることを知りました。


道灌の軍旗とは、日輪と鏑矢のアレです。

軍旗の中央あたりの数か所に、血が付いていました。
テンテンテン…coldsweats02


この軍旗のことは、「太田家譜」にあるそうで、現在は太田資正子孫ゆかりの大阪「専宗寺」が持っているそうです。

写真は撮れませんが、尾崎先生のブログ「道灌紀行は限りなく」に写真や詳しいことが書かれています。→http://blog.doukan.jp/article/184203921.html


展示の文書類も盛りだくさんでした!

尊氏様・直義さん・師直殿、関東公方・古河公方、関東管領上杉、太田、長尾景仲、小田原北条(氏照や氏邦や氏房達もたっくさん!)。一日中いられます!


近世文書もありましたが鎌倉と戦国だけにドップリと浸り、氏邦の朱印をペッタンして帰りました。

展示のカテゴリー分けもわかり易く、説明も面白く、超々々オススメ!9月2日まで。


「講演 「太田道灌と豊島一族」at 日比谷図書文化館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-ec38.html
「太田道灌vs豊島一族の「江古田原古戦場」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/vs-c7d7.html
「道灌伝説の「山吹の里」を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-f2fa.html
「「岩槻城」 道灌の会で実地見聞?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-2769.html
「豊島氏の「練馬城」を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-33ee.html
「非公開 「英勝院」の御廟内部~鎌倉」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-5d11.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

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玉縄主催セミナー 「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」

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マリコ・ポーロ

その前に、朗報です sign03 

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今、鎌倉国宝館にて「国宝 鶴岡八幡宮 古神宝」展が開かれていますね(パンフ)。我らが北条氏綱が八幡宮に奉納した相州綱広の太刀(重文)が出ることはないか伺ったところ…

出るそうですsign01
10月20日からの「開館90周年記念」に!

わーい\(^o^)/ 楽しみですね。3口とも出るのかしら?


さて本題でござる。

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鎌倉武家文化普及啓発事業として、玉縄城址まちづくり会議主催の歴史セミナー「戦国時代の鎌倉、その検証と発見」の三回目を拝聴しました。今回のテーマは、「まだナゾだらけ戦国時代の鎌倉」。


ほんとうにナゾだらけですよね~。

レジュメの表紙にも、玉縄城址まちづくり会議会長がこのようにお書きになっています。
「私たちは意外に鎌倉の歴史が分かっていない。それも頼朝三代以降の鎌倉から鎌倉の歴史が分からなくなるのではありませんか。なぜか?その一つは戦国時代の鎌倉の主人公だった後北条氏のことが伝えられてなかったからです。」


まさに~

鎌倉で神社仏閣の御由緒書や御縁起を読んでも、源氏三代 → 前の北条さん → 足利さんときて → 一気に徳川さんのこととなり、後の北条(小田原北条)に触れられていることはほとんど、いや、まず無いですものねえ。(それを言ったら鎌倉公方のこともあまり書かれていないか。)


肝心の鶴岡八幡宮の「御由緒」や「歴史」には、頼朝殿がお祀りしたことから → 一気に、江戸幕府が現在の社殿を造営したと書いていて、後北条の氏綱が再建したことなぞ、ひとっことも触れられていません。

どれだけハショルんや~。源氏以外は関係ないのか~っ。

と、知った風な口で嘆いておる私も、つい9年前に小田原北条に興味を持つまではまったく存じませんでした。鎌倉市にあんな大きな城跡があることも、それが小田原北条の城だということも、綱成という人も知らんかった~sweat01


では、セミナーでの記憶しているところだけ、以下に。

▲最初は古武道の演武

上泉伊勢守が、小田原北条の剣術指南だと紹介されていました。知りませんでした。ほんとですか?

上泉信綱は海道龍一朗氏の御本で読みました。小説の主人公としてとてもチャーミング武人で、いっときカブレheart01ましたが、史実ではよく分かっていない人なのだと思っていました。


▲まずは、我らが館長、諏訪間順氏
テーマ「小田原北条氏と小田原城」

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分かりやすかったです手(チョキ)。後の北条をよくご存知ない鎌倉の方達にも良かったのではと思いました。

冒頭、「皆さんは小田原北条をどう認識してらっしゃいますか?ちょっと、おバカっちょ?」

新陰流の演武で張りつめていた空気が和らぎました。これで、つかみはOKだべ。諏訪間さん、おバカっちょって…小田原弁で?coldsweats01

▲二番手は伊東潤氏
テーマ「伊勢宗瑞と小田原北条」

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伊東さんの考える宗瑞の長所短所などの分析。ご自身の著作の分析など。

レジュメには、
~(北条が最後を迎えた時) 天の宗瑞は、きっと、「これでいいのだ」と言っていた気がする。~
と。小説家さんですねえ。

▲シンポジウム
お馴染みの諸先生方、伊藤一美氏(歴史学者)、玉林美男氏(鎌倉市考古)、大竹正芳氏(城郭史学者)が参戦!

また、会場には宇都洋平(藤沢市郷土歴史課考古学者)氏や赤星直忠氏もいらっしゃっていました。


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(大竹氏)
ここでやっと玉縄城の話が出ました。主郭の周辺の話で、○○さんちの脇とか○○店の前とかとかに残る遺構や文献からの、地元通の話が細かく面白いです。


当ブログを読んでくださっている皆様はとうにご承知かと思いますが、宗瑞・氏時時代の防御拠点の中心だった二伝寺周辺の話に興味が湧きました。公園に残っている窪みが旧道だそうですね。

玉縄城というのは、典型的な戦国時代の山城であり、宗瑞・氏時時代、綱成時代、氏繁・氏勝時代、それぞれ違う姿をしていたと思われるとのこと。敵が当初と後半では変わっていますものね。


よく女学校が出来てしまい残念という声がありますが、女学校が出来て良かったのではないでしょうか。だって、学校がなければガンガン宅地開発されて、今頃は全ての遺構は個人のおうちの下に…ではなかったのかなあ。

(玉林氏)
戦国時代の鎌倉の話がやっと出ました。

鎌倉の主の長期鎌倉不在により、鎌倉府に集まっていた年貢や貢納物が、それぞれの武士の拠点(城)への集積へと変化していったというお話が面白かったです。そうか、そういう風に分析していくのかと勉強になりました。


それから、玉林氏は御用米曲輪を初めて見た時、 「あ、これは中国の庭園だ」と思われたそうです。敷石遺構は、 「グスクに似ている」と。

へえ~~confident
玄宗皇帝が楊貴妃のために造営した離宮の華清池みたいな感じですかね?そう言われると、すぐ、そうだ!と思ってしまうマリコ・ポーロ。


いや、つまり玉林氏がおっしゃるには、小田原北条はそれだけ海外と交流があり、また京都の出であることからも、先進的なものをどんどん取り入れていた…ということ。

オッホッホッkissmark

中でも、玉林氏が触れた 荏柄要害についての話にビッ!としました。もっと聞きたいと思っていたら、伊東潤さんが質問してくださり、大竹氏が説明してくださいました。

これはとても興味深いお話です。荏柄の要害を発見したのは玉林氏ですが調査したのは大竹氏だそうですね。荏柄天の裏山には、台形状の削平地や堀などが残っているそうな(立入不可)。

荏柄天あたりはよくウロチョロしますが、知りませんでした。ミーハーだから、聞くとすぐまた行ってみたくなる マリコ・ポーロ。

(伊東一美氏)
本日ホストでらしたので発表はありませんでしたが、レジュメに鶴岡八幡宮再建について面白い話がたくさん書かれていました。

他にも以前八王子城の歴史師匠からいただいた資料もありますので、追々ブログで紹介させていただきたいと思います。


っていうか、「戦国時代の鎌倉」がテーマだから、こういう話をもっと聞きたかったです。八幡宮や、鎌倉公方や、里見との海戦や青岳尼の話も出るかと思っていましたが、時間が足りないか。


また、今日の玉縄の講演&シンポジウムで、小田原北条の城の、両側に側溝がある道路遺構の話が出ました。私なぞは「スゴイ!」と感激しちゃいますが、鎌倉時代のそれこそ凄い遺構が家々の下に嫌になるほどあると知っている鎌倉人の聴衆の方々がどう思ったかと考えると…ちょっとゴニョってね。


レジュメには各講師の方々の他にも、鎌倉の阿部能久氏や、会場にいらしていた宇都洋平氏が寄稿。玉林氏の玉縄北条の新年表と大竹氏作図の「玉縄城の総構図」などもあり、読みでがありました。帰りの電車で熟読してしまった。

とても楽しかったです。ありがとうございました。


horse 第6回 玉縄城主墓前祭

日時:2018年10月20日(土) 9時半~
場所:龍寳寺本堂


horse 10月も毎年恒例のイベント行事が目白押しですが、ちょっと面白そうなものを3つ鱗。

▲ 「古民家で学ぶ下堀と北條幻庵」
日にち:10月3日(水)
場 所:小田原(鴨宮の古民家飯田家)

幻庵ゆかりの一節切の演奏と、下堀城ともいわれた幻庵の領地下堀についてのお話しを聞く催しです。

申し込み:キャンパスおだわら →https://www.campusodawara.jp/kouza/


▲ 講演 「武蔵大石氏と滝山城~関東の戦乱と大石氏の戦国領主化」
主 催:NPO法人滝山城跡群・自然と歴史を守る会

日にち:10月8日(月・祝)
場 所:八王子市加住市民センター(滝山城そば)

講 師:加藤哲氏

申し込み不要(先着順)→http://takiyamajo.com/html/events.php


▲ 「川越城の上で川越城の話をしよう!」
日にち: 10月28日(日)
場 所:川越市博物館

講 師:浅野晴樹先生です!

申し込み不要、先着順。
主催は河越館の会→http://kawagoeyakata.blogspot.com/2018/09/blog-post_39.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


wine以前の玉縄関係のブログ記事の一部です。

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-0e25.html

「玉縄城-1 現代の難攻不落の城へ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-170d.html
「玉縄城-2 現代の難攻不落の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-77e4.html
「玉縄城-3 現代の難攻不落の城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0e19.html

「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html
「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

「「真剣」 新陰流を創った男 by 海道龍一朗」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/by-d541.html

「前編~玉縄の北条為昌&氏綱ご正室・養珠院の謎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-47de.html
「後編~」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-2d95.html

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小田原の古民家で「北条幻庵の一節切」を聴く

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マリコ・ポーロ


明日の命さえ定かではない日々の中で、「戦国武将たちは、持って行き場のない気持ちを笛にたくしたのでは…」

と、一節切(ひとよぎり)奏者の大村響堂 氏。


母屋の広縁に続く座敷で、心地好く吹き抜ける秋の風を感じながら目を閉じて聴く「一節切」の音色。奏でるは幻庵殿。周りに座すは北条一門かと妄想に浸る。


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~「一節切」を奏でる大村氏(ご許可をいただき掲載)。後ろの書は、飯山家所蔵の山岡鉄舟。~


秋の日の昼下がり、キャンパスおだわら の「古民家で学ぶ下堀と北條幻庵」という素敵な講座に参加して参りました。


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~築100年の飯山家。かつては華道の先生で、大正時代、小田原鴨宮に駅を誘致した住民運動のリーダーだった方。~


この日の「一節切」は、大村氏が天守閣に寄託している本物の北条幻庵作の一節切(「なんでも鑑定団」に出たアレ) のレプリカです。本物に忠実に作っても、四百年前の本物の音色とは、そりゃあ違うそうです。

いつか聞いてみたいねえ。四百年前の、その音色。しかし、笛は残れど譜面がまったく残っていないので、曲も譜面も後から研究(&想像)して作られたものだそうです。


ご存知のように幻庵は一節切の名手でしたが、北条一門は皆、一節切を奏でることが出来たであろうとのこと。

本城に一門が集う時、また、それぞれの城で夜一人、御曹司たちは「持ってゆき場のない気持ちを笛にたくして」奏でたのでしょうか。


「一節切」については以前たくさん書いておりますので、その一部ですが、こちらをあわせて読んでくださると嬉しいです。→戦国武将が愛好した尺八 「一節切」http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


最後は皆でお稽古用を使って尺八の音出し体験。大村氏は尺八や一節切を教えてらっしゃるそうで、「小田原で、 幻庵を偲んで皆で一節切を奏でる会を開くのが夢」とのこと。


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~石井先生の画像~


前半は、小田原郷土史研究家の、お馴染みの石井啓文先生による下堀方形館と賀茂宮氏の話でした。下堀は、北条時代、北条幻庵やその内室の領地でした。

下堀に二重の掘に囲まれた方形館があるなんて知らなかったので とーっても興味深かったですし、また、葛山氏広についての新しい考察もちびっと伺えました。行って良かったです。

来年1月、キャンパスおだわら で、石井先生による幻庵についての3回連続講座があるそうですよ。


小田原、いつもありがとー。
う~~、現実に帰りたくない。浸り過ぎた~ sad


「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条五代の娘たち① 今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

北条幻庵の子息の菩提寺「三島 祐泉寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-200a.html
戦国武将が愛好した尺八 「一節切」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8c55.html


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北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した「太刀」

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マリコ・ポーロ

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~鎌倉文学館「鎌倉時代を読む」やってます~


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先に当ブログでもお知らせしましたが、ただ今、鎌倉国宝館の開館90周年記念特別展 「鎌倉国宝館1937‐1945」-戦時下の博物館と守り抜かれた名宝-展に、我らが 北条氏綱が鶴岡八幡宮に奉納した太刀  が出ています!


八幡宮の宝物館が所蔵している太刀ですが、宝物館にはなかなか展示されません。今回初めて観ることが出来ました。

奉納太刀は3口。展示は前期が2口、後期が1口 です。拵も現存。


それぞれに「奉納八幡宮御宝殿 北条左京大夫平氏綱 天文七戊戌年八月二日 所願成就 皆命満足」&「相州住綱廣作」「綱家作」「康國作」と記されています。

八幡宮のHPを読めば分かることではあったのですが、ちゃんと読んでいなかったので今まで勘違いしておりました。太刀は、天文9年の八幡宮正殿完成時に奉納されたものだと思っていました。天文7年8月といえば、葛西をゲットし、10月にはいよいよ国府台impactという頃です。戦勝祈願だったのですね。


太刀の長さは私の両手を広げた位。鞘は、同じく展示されていた吉宗奉納の鎌倉時代(とはなっていましたが、鞘はもっともっと後の江戸時代あたりに作り直されたみたいな?←不明) の梨地・菊紋の鞘に比べると、グッとシンプル。以前、輪島塗屋にいたので、つい鞘を主体に観てしまう。拵も当時のまま「守り抜かれ」ていて嬉しいです。

波紋は、同行した居合道をたしなむ刀剣ファンの太平記友(←長いsweat01)が申すには、「吉宗奉納のと比べて派手」とのこと。


刀や太刀・鑓というものは、どうも武器というイメージが強く、特に実際に使われた気配を漂わせる刀や太刀は苦手なんです。角度によって鈍い照明に光ったりすると寒くなっちゃうの。でも、奉納するために造られた刀なら大丈夫scissors。マジマジマジマジと鑑賞させていただきました。

12月2日(日)まで。国宝館HP→https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kokuhoukan/28tennjikai.html


horse鎌倉文学館「鎌倉時代を読む 古典から現代作品まで」

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~庭でお弁当が広げられる文学館。おやつのハロウィンドーナツとのツーショット。トンビchickを警戒しながらの緊迫感ある?ランチタイム!~


太平記友の誘いで、国宝館の前に扇谷の文学館へ寄りました。

鎌倉時代の著作関係がただ並んでいるのではなく、頼朝時代~執権時代~前北条の最後までの、およそ150年が時系列で解説され、それぞれの時代の前に、その時代を書いた新旧の著作が展示されていました。


とっても面白く、鎌倉炎上にドップリ浸れましたよ。オススメいたす。

12月9日(日)まで。文学館HP→http://kamakurabungaku.com/exhibition/index.html


horse歴史文化交流館では「出土漆器の美」を開催中ですね。「中世における漆器の生成享受の様態と、中世の人々の嗜好性について探っていきます。」だそうだす。観たいにゃ~。

12月15日(土)まで。文化交流館HP→https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/shikki.html


鎌倉は、いつもアチコチ発掘調査中。ブラブラ歩いているだけで2ヶ所で遭遇しました。建て替えるおウチも大変ですねえ。

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horse小田原城天守閣特別展 「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」

我らが北条氏綱の「鞍」が出ています。12月24日(クリスマスイブ)まで。HP→https://odawaracastle.com/news/kaifu500.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「里見へ走った公方の姫」
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cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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氏綱の鶴岡八幡宮再建と氏康の「大鳥居跡」

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マリコ・ポーロ


その熱気はどれ程のものだっただろう。

鳴り響く木槌や大鋸を挽く音、町中に飛び交う威勢のいい掛け声、牛馬のいななき。海から次々と運ばれてくる資材。七口を通り続々とやってくる人々…。

枯るる樹に
また花の木を 
植ゑそえて
もとの都に
なしてこそみめ

by 北条早雲こと伊勢宗瑞


「枯るる樹」は衰弱した武家政権=鎌倉といわれている。

父宗瑞の決意を受け継ぎ、鶴岡八幡宮の再建を悲願とした二代氏綱。氏綱晩年の約10年は八幡宮再建に費やされる。そして氏綱の悲願は三代氏康に受け継がれた。


Img_20181102_215221_2
~氏康が完成させた大鳥居の跡碑(拡大して読める?ガードレールで正面から撮れぬ。)大鳥居建設の年については、マリコ・ポーロ的に少々疑問あり。~


こうして先代の意志を次代が着実に受け継いでいくというところも、北条五代の魅力のひとつ。


さて、
鶴岡八幡宮再興の大旦那である北条氏綱の命により、真里谷の協力の元、八幡宮の大鳥居となるべく2本の巨木が上総峯上から海を渡ってきました。しかし、その造営費用である相模・伊豆から徴収された棟別銭は、担当した僧侶が着服しcoldsweats02大鳥居造営は頓挫。ドびっくり~。

その後、氏康が父の悲願を受け継ぎようやく大鳥居は完成。その大鳥居の跡が残っているとは知りませんでした。


大鳥居がどのあたりにあるのか分からなかったのですが、当時はそこまで段葛が続いていたようなことも聞いていたので、「下馬」のあたりかと思い、海に向かってトコトコ歩きました。

ありました、ありました!
下馬からちょいと先、徳川さんが造った今の一の鳥居より少し八幡宮寄りにありました!当時はこのあたりまで海だったのですね。


碑と跡(丸く平たい石が重なったようなの)は、八幡宮から海に向かって右側。反対側の跡は、点字ブロッグの下に丸く示されていました。

ここに建っていたのですねえconfident


Img_20181102_215143
~八幡宮を背に右側。~


大鳥居のための巨大な古木は、太さ約6m。長さは約 20m。

上総峯上から → 川を下り佐貫浦へ → 海を渡り ship→ 三崎に着き → 小坪へ回航 → 由比ヶ浜へ数千人で運びましたそうな。峯上から海まで川を下らせるのも大変な作業ですが、幸か不幸かなんと洪水が起き(不幸だ)、下流まで押し流してくれたそうな。


小坪から由比ヶ浜への曳き上げは八幡宮造営のメインイベントとなり、人々の興奮は絶頂に達したことでしょう。


Img_20181102_215248
~八幡宮を背に左側~


八幡宮の再建は、小田原北条氏が関東の武家の頂点であることを万人、特に関東の敵方に認めさせるための巨大プロジェクトでした。

皆様ご存知のことですが、八幡宮の神主や小別当を遣わし、坂東から伊豆あたりの武家から勧進という名目で寄付を徴収しています。これは、北条につくかどうかのリトマス試験紙でもあったのですよねえ。


対武家だけではありません。我らが氏綱公はしたたかです。鎌倉の住民感情をよく把握しています。今でも鎌倉の方達って地元意識が高く難しいでしょ(ゴメンナチャイ。ゴニョゴニョのニョ。鎌倉大好きよ kissmarkチュッ)。

氏綱は、寺社はもちろんのこと、町衆巻き込み作戦も展開。伊東一美氏も書いてらっしゃいます。鎌倉は、武家の都市鎌倉ではなく、「寺社と町衆の都市鎌倉」だと。

あ!だから「武家の鎌倉」を訴求した世界遺産認定はダメだったのか。いや、ちゃうちゃうpaperゴニョゴニョのニョ。


氏綱は現場にしょっちゅう現われ、アチコチに顔を出します。アピールですね。時には、自ら西 門の柱を塗ったりもします(嗚呼、その塗ったところが今でも残っていればね~)。時には、由比ヶ浜で京都奉公の人達を連れて海人の方達と網引きをしたりもします。

本当に精力的ですねえ。なんだか秀吉を思い出しちゃった。あれ?


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~在りし日の大銀杏~


仮殿の上棟式の頃になると、氏綱の鎌倉での地位は絶大となります。

町衆たちも勧進をし、仮殿の礎石が少ないとなった日にゃあ、時宗たちが夜通しで石を集めて敷いてしまったとか。ドびっくり~。


やっぱりにゃ…と思ったのは、氏綱が後室の近衛家を通して呼び寄せた奈良興福寺の番匠たちと鎌倉・伊豆番匠たちとの間で様々なトラブルが起こり、蓄電者まで出たということです。

人の世の常。そりゃあるでしょうが、中央からも人を出させたことに、ドびっくり~wobbly。坂東の人々に、北条(伊勢)の八幡宮再興には都も協力していると思わせるだけでも十分な効果がありますよね~。


天文9年。鶴岡八幡宮正遷宮の儀式が華やかに行われます。翌年、大事業を成し遂げ次世代にその後を任せた氏綱は此の世を去ります。


氏綱が亡くなった後も建設はまだまだ続いているのですが、ここまで八幡宮造営について詳細に書き残していた鶴岡の社僧快元の記録『快元僧都記』もそのあたりで途絶えているそうです。

造営の大旦那である氏綱のことを書くのですから少しは話を盛っていることもあると思いますが、それを引いても快元の氏綱へ寄せるリスペクトには深いものがあったのですね。


~大鳥居跡に立ち目を瞑る。過ぎゆくのは海からの風。再建時のあの喧騒が聞こえてくるようだ。~


(以上は、大鳥居跡で当時にタイムトリップし見聞したことを元に書きました。

うそbleah。『快元僧都記(もちろん口語訳sweat01)』、八王子衆の先輩歴友にいただいた山室恭子氏『群雄創世記 1995.3』、先日のブログ記事の玉縄セミナーでの伊東一美氏が書かれたものを参考に書きました。)


萩真尼 こと マリコ・ポーロ


「北条氏綱が鶴岡八幡宮へ奉納した太刀」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-6e31.html
氏綱の鞍 「ススメ!小田原北条氏展」 馬の博物館」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/at-e4d3.html

「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html
「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html

「新田義貞の鎌倉滅亡の日を歩く」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-df71.html
「鎌倉に訪ねる後北条ゆかりのヒロインの寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/post-5cd4.html
「里見へ走った公方の姫」
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シンポジウム「戦国都市小田原の風景」 2018.11

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マリコ・ポーロ


その前に…

horse恒例となったクリスマス行事?「お城EXPO」が 12/22~24 に開催されます。北条関係では以下のプログラムがあります。

・23日15:00~16:00 
 佐々木健策・諏訪間順 両氏によるセミナー
 「小田原北条の城を語る」
・24日13:00~14:30 
 諏訪間順、平山優 両氏による厳選プログラム
 「戦国大名の生き残り戦略ー小田原北条氏と武田氏の城から考えるー」

今までで一番面白そう。行けないですが…crying


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~12月24日まで~


▲鎌倉での玉縄北条の講演会 ▲氏綱の八幡宮再建(氏綱奉納の太刀&氏康建立の大鳥居跡)に続けて、▲玉縄北条綱成に嫁いだ氏綱の娘大頂院のことを書き、「鎌倉トリロジー三つ鱗」にしようと目論んでおりました。しかし、先日の小田原での講演会がとても面白かったので、忘れないうちに自分の備忘も兼ねてそちらの方を先に。


「北条早雲公顕彰五百年事業」たけなわ?の今日この頃。サル11月10日、小田原城天守閣特別展「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」の関連行事として催されたシンポジウム「戦国都市小田原の風景」を拝聴しました。


horse午前中は、特別展を観に天守閣へ

企画展にしてもドラマにしても、早雲こと宗瑞や氏康、または天正18年の氏政さんをメインに据えることが多いですが、さすが本城小田原。こたびの五百年事業では我ら北条ファンがもっともリスペクトする二代北条氏綱公をメインにしてくれています。嬉しいねえ。

(注) 目玉の氏綱公の鞍は3階に展示されています。回廊になっているところではありもはん。


horse午後は本題のシンポジウムへ

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~アサクラってる表紙。小田原市内の遺跡分布図も折り込みでたくさん付いて論文集のような内容。~


シンポジウム前半の特別講演は、小野正敏先生。その後は、小田原の発掘現場ではお馴染みの土屋氏(小田原市)・太田氏&小山氏(玉川文化財研究所)により、度々見学会も行われた発掘調査の興味深い事例報告3件が続きました。

ここ数年小田原の町をウロチョロしていると、あちらこちらで発掘調査をしている光景に出くわしますよね。これらの城下町の発掘調査は、小田原が当初から山の下にも政治の中心があったことの証明にもなってきています。


さて、小野先生の講演のテーマは、「小田原と東国の戦国城下町」。今年1月の同じく小田原での講演「戦国大名と京都-小田原北条氏にみる権威の演出」と同様、KK(客観的辛口sweat01)で、とても面白かったです。

下記、知らなかったこと(私が)やビビッときたことを備忘。


お話は、
・領国の首都としての小田原
・他国から小田原はどう見られていたのか
・小田原を首都というなら他はどうなのか
・小田原は首都といえるか
・守護大名と違う小田原北条の町づくり

などなどの視点から進みました。


pen「開府」について

上にも書きましたが、今年から来年にかけて小田原は「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」と銘打ち様々な顕彰やイベントを行っています。

思っていたんですよね~実は。小田原は幕府を開いていたわけでもないし、府中でもなのに、「開府」といえるのかな…?って。それが、払拭されました。

書いてあったのですね!「府中」と。東嶺智旺の書状に。「到 府中小田原…」。他国からも中央からも、府中と認められていたのですわ。すっかり忘れていました(覚えてないとも言えるcoldsweats01)。大変、失礼いたしました。


pen毛利家文庫の「小田原陣仕寄陣取図」

絵のほかに、細かく漢字や仮名文字で色々と書き込んでありますよね。すでに皆さんは解読してらっしゃると存じますが、私には意味が分からない箇所がたくさんあります。それがいくつか判明しました。


・「町中此内下京ほとあるべく候」=京都の下京ほど家々がある

下京って、京都の下京のことだったのですか。←今更(恥)


・「此内家かすしらす候」=家の数がどれほどたくさん~

カスシラス?籠城食として家々が、カスのシラスを干していたのかと思ってた…ってこともないですが、なんじゃこりゃ?でしたわ。


・「小田原市場」=小田原宿

西国では「宿」のことを「市場」と呼ぶのだそうですね。小田原城下町マルシェbleahが開かれているのかと思っていました。陣図は西国の毛利が作成したものです。なるへそ~ね。


pen「総構」は小田原が初めてではない

(信長の焼き討ち後の)元亀4年の信長の書状に、「総構は下京にならうべきこと」とあるんですって?すでに「総構」と呼ばれていたんですね(1983高橋氏)。

ご存知と思いますが、北条は自ら「総構」と呼んだことはありません。スケールの大きさは違えど、京都では早くからあったから、西国人は小田原を見た時に総構と呼んだのですね。スケースの大きさは違えどね。


penグリッド(方形地割り)の町

佐々木健策氏のご研究に、小田原はグリッド状の町並が形成されていたとあります。それは今回報告された城下町の発掘事例からも可能性が益々高まりました。


武田館の城下町形成などを例として、下剋上の小田原は、京や名門の守護大名が造るグリッド状の町に憧れた、と小野先生。

そうかもしれない…と思いながらも、政権が安定したら造る町並みは方形にするのが一般的ではないかしらねえとも思いました。でもまあ、北条家もそのようにしたかったのかもしれないかもしれなかったのでしょうな。


もちろん、その後の小田原北条は何代も続き関東の名門となります。黒田基樹氏がおっしゃるように、他の守護大名のほとんどは一代で終わりましたが。

と、ちょっと言いたいマリコ・ポーロ。


pen鉢形城下と滝山城下

つまり、城下町を先の領主から受け継ぐ場合と、新たに造る場合の差について。


信仰する薬師如来を、城下の8ヶ所(9ヶ所)の境界に置いた氏邦。それは鉢形のランドマークともなる。一方、氏照は街道に沿った3口をそれとしただけ(信玄侵攻時、3口を守れとの文書から)。新たに城を造ると「この程度」しか出来ないと。

滝山城下の場合は平地が広がっておらず、川と山に挟まれたところに街道があるので立地の問題があるとは思います。というか、滝山も先時代から受け継いだ城下町ではなかったでしったっけか?


余談ですが、氏邦の薬師如来信仰については、今年1月の小田原でのシンポジウム「小田原北条氏の絆」で関東管領?浅野晴樹先生が朝倉直美氏の研究を紹介しお話しされていました。

氏邦の生年が十二神将の申神像(薬師)のことから判明し、氏邦が氏規より年下だという林宏一氏のあの報告のことです。浅倉氏は、『北条氏康の子供たち』でもお書きになっていましたね。


pen他国と比べての小田原のインフラ整備の速さ(例えば小田原用水)

他国と比べても小田原北条のシステマティックな町づくりは、とても早い!それだけ早く大都市化していったと言えると、お褒めの言葉をいただきました~。

よしっ good←?


そして、私のある疑問も解決、かいけつゾロ!

penそれは、今川氏真一行の早川の難民キャンプのこと

以前ブログで氏真とその室(氏康娘)の早川殿のことに触れた時、「早川は北条の重鎮中の重鎮の幻庵の所領。幻庵は、出戻った女人や避難してきた武家の後見をしていたから、氏真一行を早川に置いたのだろう…」みたいに書きました。

一応書いてはみたものの、城内に置いてもいいのにな~と、もひとつ腑に落ちないでいました。


「城下」とは家臣が住むところなんですってね。目上や対等の者の屋敷は城下には置かないものだそうですね。あ、皆様ご存知で…sweat01。だから、今川の御当主一行を城下に住まわせるわけにいかなかったのですねえ。

これは佐々木健策氏の書かれたものにあるそうですが、知りませんでしたよぉ。なーるへそ~。目からミツウロコ。

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あれ?では小笠原さんは?小笠原さんはもう客分ではなく家臣ってことで、城下住まいでいいのかにゃ?

というところで、マリコ・ポーロ時間がなくなり後半のシンポジウムを前にしてあえなく撤退。シンポジウムは30分強位の時間だったと思うのですが、どんな話が出たのかな~。残念。


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

天守閣特別展「小田原開府五百年~北条氏綱から続くあゆみ~」HP→https://odawaracastle.com/news/kaifu500.html

「シンポジウム「小田原北条氏の絆」 2018.1」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-4e55.html
「小田原攻め、松平文庫の「小田原陣図」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-2808.html


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