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Channel: 風なうらみそ~小田原北条見聞録
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寄席 というのはよろしいもんでござんすな

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マリコ・ポーロ

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~新宿末廣亭~


自他ともに認める 超ミーハー のため、今放映中の『昭和元禄落語心中』にハマっておりやす。

原作のマンガを読みたい読みたいと思っていましたが、読めないでいるうちに去年アニメ版が始まってしまいました。原作はいまだ読めずじまいですが、ハマッタのはそこからです。


アニメ版は内容もさることながら声優さん達の落語が楽しくて、見ているうちに、寄席へ行ってみたい行ってみたいと思うようになりました。思いましたが、思いながらも行けないでいるうちに、とうとう実写版が始まってしまいました!

これを実写?俳優さんが演るのですよね、落語も。そりゃあ無理ってもんでしょう。と思いましたが、見始めてみれば我が身はドップリ落語心中ワールドに。


落語は元々興味があり、テレビやラジオやYouTube で見たり聞いたり。ホールで催される独演会とか二人会などは行ったことがあったのですが寄席は行ったことがありませんでした。

ぐずぐずしていたら、ミーハーゆえにあっという間に熱は冷め、生涯寄席に行くチャンスはなくなってしまう。


てなことで、どうせ行くなら「落語心中」ワールドに最も近そうな雰囲気の、桟敷席がある新宿末廣亭にしようということになりました。


勝手が分からないので、行く前に少しだけネットでチェック。

・へぇ~、切符は事前には買えず、その日その時に買うのですか。

・ほぉ~、席はどこでも(桟敷も)同じ料金で、一日中いられるんですね。

・しょえ~。飲食は自由だが、お酒はアカン。がっがり。チョイト呑みながら bottle落語を聞くってのもオツだと思ったんでやんすがねえ、旦那方&おかみさん方。

・舞台で噺をしている最中に出入りはしないでほしい。←これは寄席でなくても当たり前。アタリマエダのクラッカー。

・ふ~ん、落語協会と落語芸術協会とで、寄席でかかる席は順繰りになっているのか。


そして、これが一番大事なマナーらしい。それは…

笑うこと!

なるへそね~と最低限の情報を入手し、いざ参るとするか!


ツウではないので後半だけにしようと、お昼を食べてから到着。小さな窓口で切符を買い中に入ります。そこからどうしたらいいのだろう、ドキドキ。

なーんて心配ご無用!paperハッピを着たお姉さんがすぐに来てくれ、入口から空いている席へと案内してくださいます。


「椅子席は満席なので、桟敷になりますがよろしいですか?」

よろしいもなにも、なんてラッキー!桟敷席ですよ!


わーい happy02
さ・じ・き!素敵!

と喜んでいられるのは最初だけ。桟敷は畳ですから、だんだん足が痛くなるのなんのって。でもね、初めてだから、足の痛さよりは雰囲気が勝り我慢できやした。旦那方はいいですよ、胡坐かけますからねえ。いくらオバでも女の人は胡坐はいけませんや。


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~桟敷へは、裏側へ廻り、この引戸を開けて上がる。場内は撮影禁止なので、ここだけ。~


「こちらへ(上の写真)どうぞ」 by お姉さん

「素敵~heart01」 by マリコ・ポーロ

「お履物を脱いでここへ入れて、お好きなところへお座りください」 by お姉さん

「素敵~heart01」 by マリコ・ポーロ


引戸を開けてくださったお姉さん。畳敷に白い座布団がたくさん置いてあり、舞台はすぐそこ。
「素敵~heart01」 by マリコ・ポーロ

ミーハー丸出しのマリコ・ポーロに、お姉さん(苦笑)


いや、だってね、本当に素敵なんですよ。行かれたことがない方、ぜひ末廣亭さんのHPで場内を見てみてくださいましよ。タイムトリップしたみたいですよ。


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~パンフレット~


当ブログを読んでくださる旦那方・おかみさん方はご存知と思いますが、寄席は落語だけをするところではありません。落語が一番多いですが、漫才、講談、ギター漫談、奇術、神楽、紙切り、などなどの演芸がおこなわれます。

「奇術」なんて言葉は今使われませんよねえ。実際、翌日、仕事場の30代の子に「奇術って分かる?」と聞いたら、「キジュツ?何ですかそれ?」と言われましたもん。今は「マジック」と言いますか?いや、もはや「パフォーマンス」かな。


この日の演目にはありませんでしたが、江戸時代の時代劇なんて観ると、水芸なんてえのもありますよね。

「粋曲」として、粋でチョイト怖そうな?キリッとした姉さんが、都都逸とか端唄とか小唄を演奏してくれました。


落語もたくさん聞きました。よく知らないのですが、寄席では古典はやらないのですか?今度は古典を聞いてみたいな~。

舞台も舞台裏も近いので、噺を終えて舞台を下がった落語家さんが次の番の落語家さんへ、「お先に勉強させていただきました」って言うのが聞こえないかと耳をすませましたが、聞こえるわきゃないですよね~coldsweats01sweat01


というところで、うぅ、足痛~い。もう限界の玄界灘。今度は、椅子席にしますわ。

はい、お後がよろしいようで。
m(__)m


落語「名月若松城」のこと「中秋の名月は満月ではない」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-e946.html

「新歌舞伎座「こけらおとし」に行ってめぇりやした」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-6d5c.html
「坂東三津五郎さん」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/bs-e50f.html
「団十郎と、宮尾登美子の「きのね」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/11-6da8.html

「あぶらとり紙は金箔屋がつくる」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-2dd5.html

「塗師屋のおやじ」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-4533.html
「金を蒔く蒔絵、金を沈める沈金」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-6611.html
「漆の上塗りは水をかぶって裸で!」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-0474.html
「木地師 山中の虎」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-f10e.html
「続・木地師「山中の虎」と「近江小椋谷」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-273f.html
「漆の木♪人生ぃ~20ねん~♪」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/20-5efc.html


萩真尼ことマリコ・ポーロ

cat画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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小田原北条▲講演会三昧(2018.12/2019.1)

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マリコ・ポーロ


bell小田原陣図の秀次陣の件でコメントくださった方、ご返信させていただいたのですがアドレスが違うということで送信できませんでした。コメントありがとうございます。)


さて、
今に始まったことではありませんが、特にこのところ小田原北条に関する講演会が目白押し。それぞれが魅力的なので時間とパワーと財力(特に交通費)が許す限りは参加しておりますが、ひとつの講演会に行って、それをまとめきれないうちにまた次の講演会。なかなか随時アップできないでおります。以下にチビットづつのまとめの備忘。


また、まだまだ続く、これからの気になる講演会は文末に。


horse「武蔵大石氏と滝山城~関東の戦乱と大石氏の戦国領主化~」
講師:加藤哲(八王子市文化財保護審議会副会長)

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当ブログでも度々お名前を出させていただいておりますが、今、八王子の北条・氏照研究者としては第一人者の加藤哲氏。氏は市史の編纂にも携わってらっしゃいます。

その加藤先生が大石氏について講演をされました。毎度レジュメは冊子のように充実。


講演は鎌倉府の成立から始まります。そうか~、大石を知るにはそこからいかねばならぬのか~。

そして話は、永享の乱→享徳の乱→景春の乱、鎌倉幕府体制の崩壊、戦国領主としての大石氏の発展、大石氏の系統、そして長井氏の滅亡→小宮領の編入→由井領の形成、由井城のこと…等々々、もうビッチリ盛りだくさん。とっても面白くて、メモも取らず聞き入ってしまいました。


しかし、大石さんと享徳の乱前後と由井城は拙者ニガゆえ(全部やん)、また、大石や由井城については諸説あり、間違い勘違いがあると申し訳ないゆえここに御講演の内容を詳しく書くのはやめときまする。

ちょっと驚いたのは、元々の大石の本拠地は 所沢~柳瀬川流域だということ。八王子だとばかり思っていました。え?そんなの皆さんご承知?だからワテよく知らないってばさってばさ。峰岸先生の講演でも何度も伺っているのに申し訳ないことでございます。


しかし、それで ピン flair ときました。

以前、柏の城と浄牧院と滝の城に伝わる、我が北条氏照にまつわる女のことを、第2の女だ第3の女だとブログに書きました。およそ女人に興味がなさそうな我が氏照に女の影が何人もあるのが腑に落ちませんでした。それも、その女達の影は柳瀬川流域に広がっている。

彼女たちって別人ではなく、全て正室であった大石の娘比佐さんのことなのでしょう。お墓が複数あるというささやかな疑問は残りますが、当時は2つ3つお墓や供養塔があるのは不思議ではありません。


horse「戦国の商業と北条氏照」
講師:徳永裕之(早稲田大学教育総合研究所外部研究員)

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徳永氏も、同じく八王子市史編纂委員です。

つい先日、小田原で小野先生の戦国時代の北条の城下町についての講演を拝聴したばからでしたので、興味の真っただ中での徳永氏の講演となりました。


氏照の城下町形成と商業政策という、史料が少ない中でも、浄福寺、滝山、栗橋、そして八王子…と、城下町整備を連続してとらえることで興味深い話をたくさん伺えました。栗橋ときましたよ。栗橋のことは失念しておりましたが、もしかしたら、たぶん、氏照は八王子より栗橋方面にいた方が長かったかもしれませんものね。

城下町といっても戦国時代でいうところの城下町は、江戸時代の城下町とは違う機能の城下町だということも良く分かりました。2時間たっぷりでした。


また、城下町だけではなく、関戸宿・当麻宿などの、宿の、「問屋」「問丸」や、氏照入部以前の八王子の商業形態についても、文書を元に解説がありました。たくさんの研究者の方の講演を拝聴しておりますが、こたびは初めて聞く話が多かったです。


horse「北条氏康の子供たち」
講師:浅倉直美氏

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本拠地小田原の天守閣の映像をはじめとして、よく最後の華々しく滅びてゆくところが強調されるが、それは最後のたった数年のことで、その領国は武田・上杉の比ではない。ここのところを小田原の人はしっかりと覚えておいてほしい。

by 浅倉先生(僭越ながら要約)


一昨年発売された、『北条氏康の子供たち』の、早川殿・氏規・氏邦・新九郎(早世した氏康長男)についての内容に即した内容でした。

本では浅倉氏ではない研究者の方が書かれた項目もあったので、浅倉先生はどうお考えなのか、超最新の研究はどうなのか等々再確認したいこともあったので、とても興味深かったです。


ほかに以下…

▲ 馬の博物館に出ていた例の謎の北条少年像(文末に添付)についての、浅倉氏の素敵な仮説

肖像画の時代は、様々な検証から戦国期(ほぼ永禄期)で合っている。当時の誰かが描かせたと思われる。それは、瑞渓院ではないか。

氏康の肖像は、氏康死去後すぐに描かれたもの。その時は、ちょうど長男新九郎の17回忌にあたる。瑞渓院が、夫の肖像を元に早世した息子の肖像も描かせたのではないだろうか…。

肖像はたいがい年をとってから描かせるもので、若い人の肖像は少ない。あっても、もっと勇ましいもので、こういう悲しげな表情のものは無い、と。


新九郎くん(氏親?)については、本当に史料がないですよね。お墓も早雲寺でしたが、秀吉に焼かれてしまったから現存していません。残念です。

時々考えることがあります。

はたして生きて当主になっていたら、今の(今のか?)最強バディ氏政・氏照ペアはどうなっていただろうか…。代わって、新九郎(氏親?)・氏政ペアになっていたのだろうか…。それとも、新九郎・政・照の超強力トリオを形成したのだろうか…。だったら、当主の新九郎くんは秀吉の元へ出仕しただろうか。


考えてもせん無いことでありますが…。


▲ 寿桂尼の印判「帰」について。

今川に嫁ぐ時に父親が持たせたもので、「とつぐ」と読む…と言われているが、違うと思うとのこと。


やっぱりそうですか。「とつぐ」は妙だな~と、皆さん思っていましたよね~。来年は「今川義元生誕500年」で様々なイベントや刊行物が出るので、「帰」についてはそこで近々書かかれるそうです。 楽しみ!早く読みたいです。


horseこれからの気になる講演会・企画展たくさん!

▲ 企画展「越山―上杉謙信侵攻と関東の城―」
嵐山史跡の博物館にて、2月17日(日)まで。

小和田先生の講演の締切もまだですよん。

HP→http://www.ranzan-shiseki.spec.ed.jp/?page_id=355


▲ シンポジウム
『武田信玄襲来!!-三国同盟崩壊と韮山城をめぐる攻防-』

謙信君の越山ときたら、信玄殿の侵攻ですな。見よ!この「ゴジラ」みたいなスペクタクルなタイトルを!


日時:2019年2月9日(土) 13:00~16:30
会場:韮山文化センター(韮山時代劇場) 

(講演)
・「群雄激突!永禄12年の世界」竹井英文
・「信玄襲来に備えた北条氏の城-東駿河・北伊豆を中心に」望月保宏(静岡古城研究会)

(シンポジウム)
司会: 齋藤慎一
パネラー:竹井英文 望月保宏 萩原さちこ(城郭ライター)

申し込み不要先着順、参加費無料(資料集300円程度)

伊豆の国市のHPで見当たらなかったので、シンポジウムのパネラー萩原さちこさんのHPをリンクさせていただきます。今年の夏に江戸川図書館での城講座に参加したのですが、とても話が分かり易く面白かったですよ。

シンポジウムのページ
https://46meg.com/blog/2018/12/13/%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d%e3%82%b8%e3%82%a6%e3%83%a0%e3%80%8c%e6%ad%a6%e7%94%b0%e4%bf%a1%e7%8e%84%e8%a5%b2%e6%9d%a5%ef%bc%81%ef%bc%81%ef%bc%8d%e4%b8%89%e5%9b%bd%e5%90%8c%e7%9b%9f%e5%b4%a9%e5%a3%8a/


▲ キャンパス小田原「郷土史から見た日本の歴史Ⅵ」
~早雲庵宗瑞のすべて~

講師:おだわらではお馴染みの石井啓文
日程: 1/24、2/21、3/21

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キャンパス小田原のHP(PDF)
https://www.campusodawara.jp/global-data/20181214095929775.pdf

3回連続ですが、1回参加もできます。


horse北条とは関係ないですがこちらも気になる

▲ 新春お城びより
講演「江戸と江戸城の移りかわり」


3回目となる東京国際フォーラム開館記念事業「J-CULTURE FEST」は、お正月に様々なイベントが催されています。「新春お城びより」では、道灌びいきの会でお世話になっている太田氏の講演もあります。

ちょうど2日と3日に放映される公共放送のお正月ドラマは「家康江戸を建てる」。面白そうで楽しみではありますが、家康以前の江戸はなんもなくて酷い有様だった…みたいなことになるでしょう。太田さん、そんなことはないと是非お話しくだされませ。


日時:2019年1月6日(日) 14:00~16:00
講師:太田資暁(太田道灌第18代子孫)、堀口茉純(お江戸歴史作家)

要申し込みです。HP→https://j-cf.jp/2019/oshiro/


▲ シンポジウム「中世都市鎌倉と武蔵」
主催…河越館の会・中世を歩く会

日時:2019年1月26日(土)
会場:埼玉県川越市やまぶき会館ホール

(内容)
・「鎌倉の武家屋敷と河越館」
高橋慎一朗(東京大学)
・「鎌倉時代の武蔵武士と交流-河越氏を中心として」
落合義明(大東文化大学)

・「鎌倉時代の中世瓦から探る地域の繋がり -武蔵国を中心とするモノの流通・ヒトの交流の一様相-」
石川安司(ときがわ町教育委員会)
・「東西の王権とかわらけ」
田中信(川越市立博物館)
・「社会史研究をめぐって」
酒井紀美(元茨城大学・川越市文化財保護審議会委員)

・パネルディスカッション 
コーディネーター:
宮瀧交二(大東文化大学)
浅野晴樹(國學院大學)

入場無料、資料代は1000円。
河越館の会HP→http://kawagoeyakata.blogspot.com/2018/11/blog-post_9.html


wineオマケの「お城EXPO」

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小田原のブースで人生初のガチャ。大当たり~~カランカランカランbell。大ウケhappy02。大当たりは天守閣の入場券付きでした。小田原に行った時にはこのバッジをつけて歩きます。え、マジで?


萩真尼ことマリコ・ポーロ


「「柏の城」 北条氏照、第3の内室の最後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/ewi.html

『北条氏康の子供たち』のこと→「一枚岩じゃなかった、北条氏康の子供たち」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-9391.html
謎の北条少年像のこと→「「馬をめでる武将たち展」 馬の博物館(2017年)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-3b49.html

「シンポジウム「戦国都市小田原の風景」 2018.11」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/201811-ac41.html

「寿桂尼と今川氏展」 島田市博物館(2017)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/2017-29ad.html
「花蔵の乱~寿桂尼は恵探を擁立しようとしていた!?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-9c3d.html

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北条五代の娘たち ⑦ 錯綜する堀越(今川)六郎室

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by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の娘たち
【二代北条氏綱の息女~堀越(今川)六郎室/山木大方】

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を使った山木大方の印判「軍勝」~


今年は亥の年。正確には、十二支が亥(いのしし)、干支は己亥(つちのとい)となるそうですね。

さて、イノシシと言われ北条ファンとしてまず思い浮かべるのは、中伊豆の イノシシ鍋…ではなくbleah中伊豆の女領主、山木大方の印判ですよね!


wine山木大方とは

法名:高源院殿

父上: 北条二代当主、我らが氏綱公
母上: 北条幻庵もあこがれた佳人、養珠院様
兄上(弟との説あり): 天下の名将、北条氏康

夫君: 今川の堀越六郎
お嬢さん: 香沼姫
ご子息: 吉良氏朝(吉良の家督を継ぐ→下記添付の 「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」をご参照くだされ。)


山木大方には一時かなりハマリ何度も韮山に詣で、娘の香沼姫のことと共にブログにもたくさん書かせていただきました。その後に何か新しい情報を入手したら、それを元に当シリーズ「北条五代の娘たち」で書こうと思っていました。

しかし、昨年には『戦国北条家一族事典』なども出版されましたが、山木大方については特に最新説はないようです。まあねえ…。夫君が亡くなったあと、どこかの戦国大名家にでも再婚していたりしたら別ですが、それはなかったとすると、大方について研究する人も少ないのでしょう。


ゆえに、こたびはパッション濃ゆい今までのブログ記事のアーカイブでいこうと思いましたが、とは申すものの、それでは終われないのがマリコ・ポーロ。山木大方について加筆したいことが 3つ鱗 ござりまする。以下、よろしゅう。


▲ 崎姫(さきひめ)とは誰か?

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~小田原駅近くにある山木大方の菩提寺「高長寺(旧高源院)」。電車の中からお寺の屋根が見える。本堂前でまったり寝ていた猫がムクッと置き上がって近づいてきた。「御大方 おんたいほう様?」と呼びかけたら、「Yes, I am にゃ~cat」 。~


そう、この猫が﨑姫です…
ってわきゃない。それが、タイトルの「錯綜」です。


今までのブログ記事の繰り返しになりますが、山木大方は、かつて、吉良頼康に再婚した女人だとされていました。その後史料研究が進み、今では山木大方と頼康室は姉妹であり別人だということが分かりました。

吉良を次に継いだのが六郎さんとの間の大方の息子だったことから、山木大方が連れ子で再婚したと誤解されていたのだろうとのことでした。


また、山木大方には呼び名が複数ありました。山木大方(御大方)、高源院、そして 崎姫 です。山木大方と高源院はいいのですが、問題は「崎姫」です。


wine私が存じている限りでは…

かつては、再婚説により 山木大方=崎姫 とされていた(例えば黒田基樹著『戦国北条家五代 2012』、その他)

ところが、2014年横浜市歴史博物館「蒔田の吉良氏」で、山木大方≠崎姫で、吉良頼康室=崎姫 ではないだろうか?となっていて、ドびっくり~coldsweats02

ところが、黒田基樹著『戦国北条家一族事典 2018.6』では、 山木大方=崎姫、吉良頼康室=お名前も法名も不明 とされており、どひゃ~もうわけが分からん!


もちろん、それぞれには根拠となる史料があるわけで、その元の史料が錯綜しているということになるのでしょう。

前にも書きましたが、吉良頼康室 と 山木大方高源院は、当時から江戸時代を通して、ごちゃ混ぜ&混然一体&錯綜されながら、寺社やゆかりの土地で語り継がれてきたようです。


他の研究者の方達がどう書いてらっしゃるか調べようかとも思ったのですが、何を読んでも結局は黒田氏の引用で、徒労に終わりそうゆえやめましただ。

なので、ここでは「﨑姫」という呼び方は使わず「山木大方」で通したいと思います。そうしないと、説が変わったことに気が付くたびに以前のブログ記事を書き直したり注釈を入れたりと、それはそれは大変なんですよぉ。まあね、一素人のブログですからどうだっていいっちゃあいいのですが、自分が気持ち悪いだけで。


▲ 山木大方の、人となりへの妄想が変わった

以前のブログではたびたび書いておりましたが、その頃は今よりもっと知識が浅かったので、山木大方のことを活動的なカッコイイ女人だと思っておりました。なぜなら、夫君の死後は「軍勝」なんて勇ましい印判を使い、伊豆に所領を持ち、小田原と伊豆を行ったり来たりしてらしたので、男勝りな方だとイメージしていたからです。

でも、それから様々な戦国時代の女性を知るようになると、大方へのイメージもだんだん変わってきました。今川の寿桂尼も北条の女性でも印判を使っている人は多いですし、女性で所領を持っているなんて アタリマエダのクラッカーですもんね。


もしかしたら、山木大方は勇ましく活動的というタイプではなかったのかもしれない。夫君の死後は実家へ戻り、子息を吉良へ出したあとは、亡き夫の菩提を弔って静かに暮らした…のかもしれない、なんて。

小田原と中伊豆山木を行き来したと思っていたのも、どうやら「行き来」ではなく、小田原にいたのはいっときで、ほとんど山木にいらしたようですし、その領地も母養珠院の所領を継承したものですしね。


また、夫君の供養のための菩提寺への寄進を、兄(弟?)の氏康殿へ「うち嘆いて」頼んでいますしねえ。

全然、逆ですな。妄想です。分かりまへん。


▲ 六郎さんの菩提寺「正覚院」

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~修禅寺の奥の院「正覚院」。創建は古く、弘法大師が修行したと伝わっている。写真の石段を登ると岩の洞があり、弘法大師像と「降魔壇」という修行石がある。~


上に書いた、大方が氏康に再興のための寄進を懇願したという六郎さんの菩提寺「正覚院」についての疑問です。修禅寺奥の院の「正覚院」は、修禅寺のことを調べていてたまたま見つけました。

その頃は、正覚院は六郎さんの菩提寺ということが頭にありましたし、中伊豆は山木大方が出戻ってから晩年まで暮らした土地です。なんの疑問もなく単純に、「お!ここが六郎さんの菩提寺正覚院か~」と思い、お参りにも行きました。


ところが、上記の『戦国北条家一族事典』には「正覚院は早雲寺にあった」と書いてあるのです。

皆さんご承知のように、早雲寺というお寺は、当主とその正室、直系の息子などの菩提寺です。他家の六郎さん程度(←失礼だ)の菩提寺を早雲寺に建てられるのでしょうか。六郎さんの菩提寺を早雲寺に建てたら、他にも我も我もと早雲寺に建てたがる人達が出てきてしまうのではないでしょうか。

それとも、大方が氏康に懇願してたから、六郎さんだけは例外として許されたのでしょうか?


また、大方が入寺をお願いした「めいざんまいる」の明山隣察は修禅寺の僧です。

私なりに早雲寺を調べても「正覚院」のことは見つからず、とはいえ、修禅寺正覚院にも六郎さんの記録は見つけられません。

未亡人山木大方が暮らした所領は修善寺(修善寺は土地名、修禅寺はお寺名)エリア。明山は修禅寺の僧、同じ名前の「正覚院」は修禅寺の奥の院。早雲寺ではなく、こちらではないのでしょうかねえ。2ヶ所お墓がある場合もありますが…。


だって、そうそう簡単に遠出は出来ない当時の女人。大切に想っていた夫君のお墓を、格式はあれど離れた箱根よりは、いつでもお参りできる近くにおきたくないですか?現代の女性陣の方々。


違いますかねえ…。違っていたらゴメンナチャイ。

どなた様か、当時の文書に「早雲寺の正覚院」 または 「修善寺の正覚院と堀越六郎」のことが載っているのをご存知でしたら、教えてくださるとありがたいです。もちろん現代語訳付きで。テヘヘ happy02


ほにゃ、今宵はこれまでにいたしとうございます。

北条五代の娘たちを書きはじめてから、調べることや訪ねる場所が多くブログの更新が間遠になっております。でも楽しく頑張って書いているので、今年もご贔屓の程よろしゅうおん願い上げたてまつりまする~。

チョーン!(←きのねの音)


以下、山木大方&娘の香沼姫のアーカイブと、シリーズ「北条五代の娘たち」の記事にてござ候。


wineアーカイブ~山木大方のこと(今回と同じ写真が多くて恐縮です)

「小田原北条の女領主、伊豆の山木大方」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-d6d6.html
「前北条と後北条の 「伊豆 修禅寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-475a.html
「後北条の姫も妬んだ常盤姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-64d0.html


wineアーカイブ~お嬢さん(つまり氏綱様の孫)の香沼姫のこと

「小田原北条の謎の女人 「香沼姫」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-4e66.html
「小田原城「御前曲輪」で妄想す~香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-7998.html
「北条の香沼姫と「香沼姫どん」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-58ba.html
「レジェンド・オブ・香沼姫」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-bb1a.html


wine以下は、まだまだ途中の、シリーズ「北条五代の娘たち」です。

▲初代 伊勢宗瑞(北条早雲)の息女
「北条五代の息女たち①今川から戻った長松院様」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-3132.html
「北条幻庵の、伊豆の屋敷と菩提寺「金龍院」」

http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-df1a.html
「北条幻庵の妻は、葛山氏ではないだろうか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-d602.html

▲二代 北条氏綱の息女
「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html

「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html

「北条五代の娘たち ③ 吉良頼康 室~上杉謙信の侵攻と吉良の代替わり」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-9be1.html
「北条五代の娘たち⑤古河公方晴氏室~関宿にある謎の五輪塔」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-b38c.html

「北条五代の娘たち ⑥ 諏訪湖に消えた駿東の名族葛山氏」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-7fbd.html

▲三代 北条氏康の息女
「北条五代の娘たち④今川氏真室~戦国の高等遊民夫妻」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-9cbd.html
「今川氏真が父義元の13回忌を営んだ小田原「久翁寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/13-bdf8.html
「東京にある、今川氏真と早川殿の菩提寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-1bac.html
「今川氏真夫妻らの、当初の菩提寺 「萬昌院」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-88b5.html

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妄想編~浄心院は北条氏綱の娘か三浦道寸の娘か?

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by マリコ・ポーロ

シリーズ 北条五代の息女たち
【二代・北条氏綱の娘たち、太田資高室~妄想編】



wineその前に、講演会など情報三つ鱗

▲ 2/9(土) 韮山
シンポジウム「武田信玄襲来!!~三国同盟崩壊と韮山城をめぐる攻防~」

申込不要。伊豆の国市HP→https://www.city.izunokuni.shizuoka.jp/bunka_bunkazai/event/190209_takedasingen_raisyu.html


▲ 2/9(土) 国学院大学博物館
特別展 「神に捧げた刀 -神と刀の二千年-」

鶴岡八幡宮に氏綱様が奉納した太刀が出ています!先日の国宝館を見逃した方は是非!私が気になるミュージアムトーク「中世東国武士の神社信仰と刀剣」が 2/9。特別展は開催中。3/16 まで。

申込不要。HP→http://museum.kokugakuin.ac.jp/special_exhibition/detail/2018_katana.html


▲ 2/16(土) 酒々井
シンポジウム本佐倉城跡 国史跡指定20周年記念事業講演会 
「敵を阻む城、にぎわう城下 ~戦国時代の本佐倉城と千葉氏の歴史~」

申込不要。佐倉市HP→http://www.city.sakura.lg.jp/0000019017.html


さて、本題の妄想へ。

004_2
~三浦氏の本拠地のひとつだった岡崎城址。昨今の研究では、三浦一族滅亡は永正15年→13年となったそうな(『建芳書状写』だそうな)。~


先日、お世話になっている「道灌びいき」の会との繋がりから、三浦衆の方とお会いする機会がありました。お話しをしていて、もわ~~っと妄想が広がりました(また sweat01)。

以下、興味のある方にしか分からないお話しで失礼。


wine今までのあらまし

当ブログで足かけ4年にわたり続けておりますシリーズ「北条五代の娘たち」。当時の有力武家に嫁いでいるにもかかわらず、特に初代宗瑞と二代氏綱のほとんどの娘達についてはよく分かっていません。そのため調べることや訪ねる所も多くなり、いまだ氏綱の娘たちのを足跡を辿っている途中です。

中でも特に謎なのが、太田家に嫁いだ二代氏綱の娘、浄心院日海です。なぜなら、史資料を読んだり、ゆかりの地を巡っているうちに、同じ法名の、同じ没年月日の、同じ菩提寺の、もう一人の「浄心院日海」に出会ってしまったからです。


その女人は、三浦道寸の娘でした。

あらたにご興味を持ってくださった方は、浄心院を追って江戸や安房を歩き回った今までのブログ記事をご覧くださるととっても嬉しいです(文末リンク)。


北条浄心院は、太田道灌の孫で江戸城にいた(資高)の室ですが、三浦浄心院は、道灌の息子で三浦へ援軍した(資康)に嫁いでいました。

私は北条から入ったので、北条の娘=浄心院日海だと思ってきましたが、三浦氏や太田氏を研究されている方達は、三浦の娘=浄心院日海と思ってらしたようです。この違いは面白いですねえ。


図書館へ通い、三浦浄心院のことも色々調べました。しかし、残されている三浦浄心院の記録は、実家と夫が違うだけでほぼ北条浄心院と同じでした。どうにも分からんのう。

私なぞより、本物の浄心院さまの方が戸惑っているでしょうし、もうお一人の浄心院日海だとされた女人の方は、自分の人生が違えて後世に伝わっていることに淋しい思いをしてらっしゃるかもしれません。


wineここから妄想

167
~三浦半島の先から房総半島を眺めるの図。近い。~


なんと!先日お会いしたその三浦衆の方も、「二人の浄心院日海」について調べてらっしゃいました。私と同じく安房の正文寺へも行かれていました!ドびっくり~happy02

太田氏(現代の御当主)、正文寺の御住職、そして三浦衆の方。「二人の浄心院日海」に興味を持っているのは私一人ではなかったのです。


三浦衆は、ご自身が作成した超々詳細な、素晴らしい「浄心院年表」をくださいました。そこには、浄心院の年齢について2つのパターンが想定されていました。浄心院の生年や没年齢は分かっておらず、私は、1つのパターンしか知りませんでした。

お会いした帰り、電車の中で2つの年齢想定表をジーーーッと見ていて、ふと 思いつき、妄想が広がりました。

三浦浄心院と、北条浄心院が同一人物だったら面白い!


実は以前、北条友で某歴史ガイドツアーの講師の方に、

「二人の お浄さん(←これ イイネ!) は同じ人だったりして…?」

と言われたことがありました。その時、もう1パターンの年齢想定があると知らなかった私は、「世代が違うのよね~」とアッサリ申してしまいました。

それまで私が知っていた年齢想定の方だと、三浦浄心院と太田資高は、超々年の差カップル&超々高齢出産(当時としては)で無理があったのです。でも、この日に知ったもう一つのパターンだといけそうなのです。北条友、あいすまぬ。


wine妄想時系列

三浦のお浄さん(←北条友のパクリbleah)は、若くして資康に嫁いだものの夫は戦死。(資史料より)

北条氏綱は、負けた三浦のお浄さんを引き取り養女とする。(妄想だが、よくある話)

養女となったお浄さん(妄想)は、北条のお浄さんとして資高に嫁がせられる(資史料より)。

(資高の母は三浦のお浄さんではなく、正室…たぶん三浦のお浄さんは正室ではにゃい→文末のブログご参照くだされ。)

お浄さんは江戸で亡くなり、息子の康資により江戸に菩提寺「浄心寺」が建立される。(資史料より)

康資、北条から離反し最終的に安房へ。

康資、安房でも母のお浄さんを弔う。(妄想)

(資史料よりは、いままでのブログ記事をご参照くだされ)


これなら、最大の謎(文末リンク参照)だった、

①浄心院が三浦の娘&資康室なら、何故、江戸に菩提寺があるのか?
②浄心院が北条の娘なら、何故、安房のお寺で正木と一緒のお位牌なのか?

も、かいけつ!怪傑ゾロリ!


な~んて。

その時々の北条と正木と太田の状況などもまだ調べておりませんので、仮説にもならない単なる妄想にござりまする。


wine以下は、まだまだ途中のシリーズ「北条五代の娘たち」のうちの、浄心院日海について書いたものです。

「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-3f58.html

「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
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「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
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「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
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「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
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マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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ただ今、小田原北条妄想中

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妄想と仮説が、あざなえる縄の如し状態に入っております。

某過去帳とか、道灌時代関係の某街道とか、某鐘&某陣場とか、そして、ブログでシリーズとしている「北条五代の娘たち」の二人の浄心院殿さまで、調べることや訪ねる場所が多く、ご無沙汰してしまっております。

仕事に行ってる暇もないし…いやいや、仕事は行かねばならぬが、通勤時間も休憩時間もそれらに捉われておりやす。落語も聞きに行けない…crying


浄心院さまのこと以外はブログには書けないので、もうしばらくブログの更新は出来ないかもしれませぬ。

みなさま、防災と花粉とインフルエンザと はしか にはくれぐれもご用心くださいませ。
ほにゃ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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シンポジウム「小田原北条氏の絆」 2018.1

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マリコ・ポーロ

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~3ヶ月に渡るスーパー連続講演会がまとめられた冊子(クリアファイルはこの日参加した人達だけ)~


小田原城天守閣企画展「小田原北条氏の絆」にからめて昨年の11月から連続して催されてきた講演会は、最終回の今月がクライマックスとなりました。


最終回はカトケン(加藤憲一)市長さんのご挨拶で幕を開けました。

続いて、天守閣館長である「小田原愛に溢れた、まさに現代の小田原城主ともいえる」(←司会の方の弁。会場内にウケた happy01) 諏訪間さん。


来年は小田原城開城500年(←諸説あり) & 北条早雲こと伊勢宗瑞没後500年 を迎えるそうで、諏訪間さんがおっしゃるには、北条氏綱を顕彰することで様々な企画を進めてゆきたいとのこと。

北条ファンにとってご贔屓の一族衆・一門衆はそれぞれあれど、北条氏綱を一番リスペクトするのは誰も同じだと思います。北条の治世を盤石とした氏綱公がクローズアップされるのは、とても嬉しいことです。


ちなみに講演は…
(11月)
齋藤 慎一氏 「北条氏照と八王子城」
佐々木健策氏 「北条氏政と小田原城」

(12月)
浅野晴樹氏 「北条氏邦と鉢形城」
池谷初恵氏 「北条氏規と韮山城」


(今月1月)
小和田哲男氏 「小田原北条氏の領国支配とその絆」
小野 正敏氏 「戦国大名と京都ー小田原北条氏の権威の演出」
竹井 英文氏 「城郭関係史から小田原北条氏を考える」
諏訪間順氏 「小田原北条氏のイメージと小田原城」

最後は、講演をされた全ての演者の方たち8人によるシンポジウムで幕を閉じました。


今回のブログ記事は(も)、長いです。前半が講演のこと。シンポジウムのことは後半です。


Photo_2
~小野先生の講演~


先生方の講演はどなたも面白かったのですが、特に楽しみにしていたのが小野正敏先生の講演でした。

小野先生の講演を拝聴するのは、4-5年前の、葛西での「戦国時代の城館」と、川越での「中世東国史の軌跡と未来」の2回だけです。北条に特化しての小野先生のお話しは珍しく、北条オタクの私にとっては新鮮かつ客観的なお話しが伺えそうでワクワク happy01


案の定!とーーっても興味深い内容でした。我が八王子城の例もたくさん出ましたよ~。

以下、ビビッときたところを、ザックリで先生には恐縮ですが要約して書かせていただきました(言い回しやお使いになった語彙などは正確ではありません)。先生のお話しは、私なぞではとても書ききれないゆえ、きちんと知りたい方はトップの写真の素敵な冊子を是非お求めくだされ。


先生は、「今東国において北条氏を研究することは大変意味がある。」とおっしゃいます。

horseまずは、ドップリ北条研究ではない小野先生がそれゆえに客観的にクールに(?)まとめられた、北条が東国に根を張るために行った3つの作戦について。


① 氏綱による家格ランクアップ作戦
北条への改姓、近衛家から迎える後妻。また、左京太夫や御相伴衆などの官位取得は戦国時代には何の実態もないものだが、今川・武田のように御職を持たない北条にとっては必要なものだった。


② 東国の武家棟梁としてのイメージ継承作戦
特に鎌倉幕府が庇護した有力寺社仏閣の修造や保護。
(前回のブログ記事で書いた六所神社もそうでしたね!)


③ 関東公方乗っ取り作戦
娘の芳春院を嫁がせ、生まれた男子(義氏)を無理やり(←by マリコ・ポーロ)次の公方にし、そこへ氏康の娘を嫁がせ、北条を関東管領に補任させたりした。

(おお!こちらも当ブログでは「北条五代の娘たち」や葛西城のあたりの「後北条一族の陰謀」などで、しつこく、こってり追いかけておりまするぞ。)


horse次に、小田原城と八王子城の発掘された権威空間について

▲ 近年次々と北条氏の建物群や庭園が発掘されているが、こうした遺構群がひとつの城だけではなく、いくつもの城で、まとまったかたちで発掘されるのは例がなく、その上、同じ北条氏の城の中で比較できるという点では重要な成果である。


▲ 小田原城の御用米曲輪は、まだ一部しか発掘されていないが(主殿あたりがまだ)、八王子城からは、主殿・会所・池庭・広庭など全てが出てきたといえる。

▲ 御用米曲輪の切石敷きだけを初めて見た時は、その異質さになんだか分からなかったが、全体像を把握した時に、そういうことかと分かった。これは、権威を示す空間として他にも例が見られる空間。

▲ 小田原城の建物と庭園は、広い砂利敷の中に規模の大きな池庭があり、主要な建物と庭を大きく離した広がりのある空間は、将軍家や細川邸などと同じく一昔前の庭の造りであり、つまり、権威を演出するもの。


▲ 八王子城は、エリアの広さ(狭さ)も関係もするが、池と建物がセットになったコンパクトな機能の造り。つまり、戦国時代的な空間。

ただし…

この時代の最先端でモダンなプランの造りや配置なのに、池の護岸の縁取る石の並びは非常に「稚拙」で、「こりゃ、どういう意味だろう???」と。


Img20180113_135341_3
~コレ。 パワホの映像をアップにしました。分かり難い写真で申し訳ないです。八王子城ガイドの会のHPには、もっとハッキリ写っています。~


大内館などの池の写真を示され、普通は池の縁取りは、大小様々な石で景色を作っていくそう。大名庭園と館の専門家である小野先生の考察に、あらためて八王子城の写真を見てみると、まさに、ホンマやという感じ。あの時は、池が出てきたことだけに興奮してしまっていたものねえ。

池の護岸は北条時代は未完で、その後、水が流れてきてしょうがないので大久保さんの人足が取り急ぎ組んだのかもしれない(by マリコ・ポーロ妄想)。


先生はこの話をする時、「八王子の人、来ていないですよね~!」と冗談めかして何度も確認されるのが可笑しかったです。

いますよ~、先生。たっぷり来てますよ~。


小野先生は、現代のことでも、関東を「東国」とおっしゃるのが面白いです。また、お話しを聞いていると、あらためて、つくづく、北条って特殊なんだな~とも思います。


horse威信財とカワラケ、北条の首都作りのこと

と、このへんで、ワテの筆力の限界。まだシンポジウムのこともあり長くなるので、繰り返しになりますが、あとは冒頭の冊子をお求めくだされ。とても詳しく書いてくださっています。


Img20180113_153214
~シンポジウムは、血湧き肉躍る超ゴージャスメンバー。さすが本城。~


シンポジウムはとっても濃い内容でした。壇上だけではなく会場内にいらしている各城(北条支城以外でも)の研究者方も調査の現況について次々とコメントが求められていました。

企画展と連続講演会のテーマのとおり、北条五代が深めた支城間の「絆」は現代も繋がっている、そんな気がしました。

講演と同じく、気になったところだけ(覚えているところだけsweat01)以下。


▲ 次々と出てくる新説について

小和田先生、
「ちょうどこの話がでたので…これは皆さんに申し上げたいのですが…、ひとつの新説が皆で検証され認められるには最低でも10年 はかかる。そういう意味からも「9年」も顕彰が必要。新説が出たからといって、すぐに皆でそうしてしまわないことが大事」
だとおっしゃいました。


佐々木さんは、
考えたことをすぐに発信するとアッチコッチから色々な批判がくる。それで研究が進むという利点もあるけれど、その考えはどんどん変更されていくから常に気を付けて見ていかなければならないと。


齋藤氏、
大森氏を追いやったというが、そもそも大森氏の拠点はどこだったのか?

それは、宗瑞vs大森氏 ではなく、宗瑞vs扇谷 ということで考えるということですか?分からにゃい…coldsweats01


(小和田先生のお言葉ですが、当ブログなぞは蟻の爪にも引っ掛からない弱小ブログなので影響力はまったく無いとは思いますが、新説を読むとすぐに、「こう書いてあった!ドびっくり~!」としてしまうので、少し反省。センセーショナルな書き方はしないようにしようと思いました。)


▲ 氏邦の生年がハッキリしたこと(薬師像の銘札で裏付けられた)と、それによる氏規との出生順のチェンジについて

これは前回の講演会での浅野先生のお話しで初めて知ったことです。


「通説・定説は書き替えられるのが、歴史」 by 小和田先生。

また、考古学系の先生方が、氏邦の生年が何年だろうが実はどーでもエエみたいにおっしゃったのには、会場大笑い。確かに~。


▲ 八王子城、天正18年廃城でいいのか?

齋藤氏
「当事者なので言いにくいのですが…文献データと考古学データの付け合わせは大変難しいが、真実はひとつだと思います。」


▲ 北条の城の特徴

諏訪間さん
北条の城の特徴は、「関東ローム層で守られた城」

齋藤氏
「北条系の城だ」「武田系の城だ」は、ない。と、ここで、会場にいらした加藤理文氏も登場。


小和田先生
もちろん違うところもあるが、ある程度の共通した特徴はあるので、〇〇系とは城の縄張りをあえて分かり易く話すために言い始めたもの。


「織豊系の城郭とは、天守があって石垣があるもの。技術をともなうものだが、後々、技術を伴わない 真似っこ城が出てくる」←あれ?これはどなたがおっしゃったのでしたっけ?


▲ 小野先生

・北条は本来の研究対象ではないが、御用米曲輪を見て小田原北条がなんたるかが初めて分かった。

・全国レベルでトップクラスの城だ。

・八王子城の主殿などの建物プランが、同じ時期に出来た聚楽第とそっくり。最先端の技術を取り入れ、それがすぐ出来る。技術集団が全国を動いている?
(技術集団は契約関係だったと思うと、齋藤氏。これは、講演でのお話にもありました。)

・本城と支城群がこんなにまとまって系統だって掘れているところは他に無い。


▲ ▲ ▲

ふう~。他にもたくさん楽しい話はあったのですが、全に筆力&記憶力&脳内整理力&体力の限界。今日のお休み一日を全て費やしてしまった。ここまで読んでくださった方も、ありがとうございます。

連続講演会には3ヶ月皆勤賞(早退ありsweat01)。途中で早川口の見学会もあったりして、数年前の御用米曲輪の連続見学会を思い出すような、北条成分をたっぷり注入できた3ヶ月でした。ありがとうございました。


karaokeまだまだありますぞ。北条系(?)の大きな講演会。

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伊豆の国市文化財講演会 「韮山城をめぐる攻防」

講師: 中井均氏、齋藤慎一氏
場所: アクシスかつらぎ大ホール(長岡)
日時: 1月20日13:00~
申込不要

問合せ先: 伊豆の国市教育委員会文化財課

オイはもうとても行けもはん。残念でごわんど~。


「お城EXPO」の北条関係講演会 と 小田原城天守閣「絆展」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/12/post-1e38.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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鐘は天下の回りもの~宗瑞が使ったかもしれない銅鐘

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  • Dsc_0044
    ~小野路「小野神社」~


    [E:#x1F3B5] 鐘にぃ 恨みは 数ぅ数ぅ ござ~る~

と、鐘に身を隠した安珍を追い山路をひた走る清姫の如く、小野路「小野神社」の釣鐘をめざし現代の鎌倉街道をひた走る(バスで)マリコ・ポーロ。

いや、鐘に恨みはさらさら[E:#x270B]あらねど、小野路の小野神社に応永年間奉納の、刀傷がある古い銅鍾があるそうな。鐘は600年の間に回りまわって、今は重要文化財として逗子の海宝院にあるそうな。


以下、超ややこしい警報&超長文警告。


[E:#x26F5] 小野路

街道や宿には皆さんの方がお詳しいと存ずるのでチョビットだけ。

小野路は町田市の北方に位置する。鎌倉と武蔵国の府中を繋ぐ古代からの交通の要所にある町で、江戸時代には宿が置かれていた。


戦国期は我らが北条氏照の八王子領であり、幕末には、名主だった小島家により天然理心流の道場が設けられ、近藤さんや我らが土方さんが出稽古に通ったりしていた。

土方さんの日野から小野路までは、現代の車なら30分位(混んでなければ)、徒歩(かち)なら2時間半ほどになる。京に上る前の土方さんは、欝々とした日々の中で何かデッカイことを成したいと(←想像[E:#x1F4A6])この道を通ったのだろうか。小島家は資料館にもなっていて、家に伝わる新選組ゆかりの資史料を展示している。(開館日が決まっています。)


[E:#x26F5] 小野神社(旧小野大明神)

小田急線鶴川駅からバスに乗ること約10分。小野神社はちょうど街道が交差する三叉路の宿の入口に鎮座ましましていた。石段を登ると…

あった!
鐘は、本殿の回廊の右端に吊り下げられていた。

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おのれ、安珍!!

って、ちゃうちゃう[E:#x270B]


神社の入口にあった説明書には次のようにあった。
(鐘のところだけ抜粋)

…応永十年(1403)には、小野路村の僧正珍が寄進を募り、交通の安全を祈願して宮鐘を奉納した、朝夕に別当寺の清浄院(現在廃寺)の僧が宮鐘を撞いて旅人に時を知らせたという。戦国時代の文明年間に、両上杉の合戦で、この宮鐘は山内上杉の兵によって、陣鐘として持ち去られた。現在は、神奈川県逗子市沼間の海宝院に保管されている。宮鐘は昭和五十九年に…


本殿は高台なので3方の街道を見下ろすことができる。当時の鐘がどこに吊り下げられていたのかは分からないが、朝夕にこの鐘は宿に鳴り渡り、街道をゆく人達を見守って(見張って?)いたのだろう。


略奪は当時の戦では当たり前。文明年間の戦とはどの戦だろう?  刀傷はその時に付けられたのだろうか。

鐘の下へまわってみる。鐘の由緒が書かれたものが掲げられていた。


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神社の由緒書とほぼ同じだが、こちらには、

文明年間の両上杉の戦いの時に、
山内上杉の兵が陣鐘として使用し鎌倉に凱旋しのち若干年を経て海宝院に…

「鎌倉に凱旋し」という文言が増えていた。ふーむ。鐘はいったん鎌倉にも持っていかれたのか。その後、長谷川氏が手に入れるまでは百年はあると思うが、「若干年」とあるね。


説明書にあるように、鐘は今、逗子の海宝院の本堂内に保管されている。小野神社に今置かれている鐘は複製である。海宝院の本物は普段は見られないそうなので、複製でもよいから見てみたく、小野路へひた走って来たのだ、バスで。

鐘のことを知ったのは、逗子「海宝院」の伝承を読んだからである。


[E:#x26F5]  旧三浦郡の「海宝院」寺伝

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして 徳川幕府のころ 当郡高山城 則 北条氏の築かれし城へ軍用の為取り寄せ置き 其の後 当郡奉行職長長谷川氏へ軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成 当院建立の際納められし鐘也
(逗子市HPより)


海宝院の説明書きや逗子市のHPによると、「当院建立」は、長谷川さんが代官として三浦郡に派遣された徳川入府の頃らしい。細かく言うと、最初の建立は横須賀村で、逗子に移ったのは慶長期だそうな。後から調べた『相模風土記』には、海宝院は天正19年に御朱印を賜ったとある。

鐘の移転について少し考えてみる。考えてみるのがメンドクチャイ方は文末近くまですっ飛ばし、しばし「小野路里山交流館」でまったり~[E:#x2615]してくだされ。


話はチト逸れるが…
なぜ、たかが鐘のことをこれだけ調べるのかと申すと、いつも書いていることだが、アクセス数も少ないこんな弱小ブログでも、ありがたくも読んでくださる方達がいる。マリコ・ポーロの書いたものなのでよもや全面信じたりはされないとは思うが、もしかしたら記憶のどこかに残ってしまうこともあるかもしれない。素人歴史ファンのブログとはいえ発信する以上は責任がないとは言えない。

過去のブログ記事も、何か気が付いたら追記なり訂正なりを出来る限りしてはいるが、どうしても追いきれない。だから、何かを見たり読んだりしても鵜呑みにせず、なるべく調べて調べて書きたいと思っているからである。

ちょっと、おこがましい?


神社の御縁起や御由緒には微妙なものがあるのは皆様ご承知のことだが、寺社は歴史の研究者ではないし、寺伝なども、歴史が今のように微に入り細に入りまくって研究され進化する前に書かれたものも多いので、それは仕方のないことだと思う。

海宝院の伝承についても、いつ作成されたものかは分からないが、鐘の最後の持ち主の長谷川さんが御自身開基の海宝院に寄進した時に鐘のことを何と言って書かせたかもかなり影響していることだろう。しかし、今のところそれしかないので、主にそこから鐘の移転歴を整理してみたのが以下。

あ、新九郎さんの出番はもうしばしお待ちあれ。←引っ張る引っ張る


話を戻し…

[E:#x26F5] 鐘の移転歴

① 応永10年、八王子領の小野路「小野大明神(現小野神社)」の僧正珍が奉納
(鐘の銘文/小野神社/海宝院などの説明書/町田市史・逗子市HPなどより)


② 文明年間の両上杉の戦時に山ノ内の兵が持ち去り、鎌倉に凱旋する
(小野神社の由緒より) 


③ 徳川幕府の頃、「当郡」の高山城(すなわち北条の築いた城)に取り寄せ置く
(海宝院寺伝より/「三崎志」←後述))


④ 「当郡」奉行の長谷川長綱が拝領
(海宝院寺伝より)


⑥-1 長谷川長綱が三浦郡の海宝院建立時に寄進
(海宝院寺伝/逗子市HPより)

⑥-2 文禄の頃、長谷川長綱が、菊名にあった三浦道寸の鐘を海宝院に移す
(「三崎志」←後述))


ざっと、こんなところで合っちょる?


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~逗子「海宝院」の四脚門。当時のままだそうで、朱塗(この写真で分かる?)に茅葺の屋根が素晴らしい。一見の価値あり。大船や逗子湘南藤沢あたりには茅葺の門をもつお寺がいくつかある。~


移転歴からは様々な疑問が出てくる。主な疑問の、三つ鱗ならぬ四つ鱗。

▲-1 まず、伝承の時系列が妙。

▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

▲-3 山ノ内が略奪してから、当郡へ取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで、鐘はどこにあったのか?

▲-4 「当郡高山城 則(すなわち)北条の築かれし城」はどこなのか?←これが、新九郎さんに関係があるかもしれないこと。


そこで、もっと考えてみたい。

うぎゃ~[E:#x1F620]もうどーでもエエ!という方は、文末近くの「小野路里山交流館」まで素っ飛ばしてくんなまし。


▲-1 時系列が妙?

鐘を取り寄せ置いたのが徳川幕府の頃で、③。長谷川さんが鐘を拝領し海宝院建立の際に寄進したのが文禄・慶長の頃で、⑤&⑥。

あにゃ~?海宝院建立の年代は確定できないが、慶長期だというのはお寺の説明書からもそこはかとなく読み取れるから、これは、③の「徳川幕府のころ」は、「徳川入府のころ」なのではないのかにゃ…。


▲-2 当郡へ誰が、なんの軍用のために取り寄せたのか?

まず、海宝院寺伝の「当郡」とは三浦郡のことである。この伝承は、三浦郡にあるお寺「海宝院」の伝承だから、当郡=三浦郡 と読み取れる。実際そのあとに続く文章に、同じく「当郡奉行職長谷川氏へ」とある。長谷川さんは当時三浦郡の代官であったから「当郡奉行=三浦郡の奉行」ということになる。

念のため、専門の諸先生方や、三浦市さんと逗子市さんにも確認したところ同様の解釈だった。

前半の「当郡」と後半の「当郡」が違う郡ということはないか?と伺ったところ、同じ文章内で「当郡」の意味が違うということはまずナイとのことだった。


誰が取り寄せたのかについては主語がないので絶対とは言えないが、もし長谷川さんだったとし、上にも書いたように、これを「徳川幕府のころ」ではなく「徳川入府のころ」とすると、時はまだまだ超々々不安定。長谷川さんの陣屋は浦賀だったそうだから、海防 のためということも考えられる?

う~ん。分からん!


▲-3 山ノ内が略奪してから当郡に取り寄せられ長谷川長綱が拝領するまで(小野神社の鐘の由来には「若干年」とあったが…)鐘はどこにあったのか?

その間約百年あるが、移転歴の③&⑥-2の引用として挙げた「三崎志」には、こう書かれている。

「陣ヶ台菊名にあり。道寸陣鐘此処にありしと。文禄中長谷川七左ェ門沼間海宝院に移せしなり」


「三崎志」は江戸時代(たぶん宝暦年間)に書かれた地誌であり、その正確性については私は分からないが、これによると…

新井城(三崎要害)の「外の引橋」があるあたり「菊名」に三浦道寸の陣鐘があったのを 文禄の頃に長谷川さんが海宝院に移した、ということになる。


ふ~む。

当郡(三浦郡)へ取り寄せ置いた…
というのは海宝院の寺伝にしかみられず、他の資料はみな、「山ノ内の誰かが略奪→文禄のころ長谷川さんの手に入る」と間の百年をハショッテいる。


ということは、山ノ内の誰かが鎌倉のあと三浦へ持ってゆき、菊名へ陣鐘として設置したのだろうか。そして、鐘はそのままそこへ(またはどこか他の所へ)、戦国時代の百年間置かれたままになっていたのだろうか。お寺の伝承からは、それしか読み取れない。

長谷川さんはそれをいただけるように申請して拝領とし、または、勝手にいただいちゃったのを「拝領」とし自身の寺へ納めたのだろうか?

分からんのう。


▲-4 徳川のころ、鐘を取り寄せ置いた「当郡高山城」とはどこなのか?

いよいよ新九郎さんこと伊勢宗瑞の出番…かもしれない。

なんだとー!ここまで引っ張ってきて、「かもしれない…」だとー![E:#x1F4A2]


コホッ。さてっと。


[E:#x2606] 寺伝は記事のトップの方に挙げたので、再度ここに書くのでご参照くだされ。

往古武蔵国八王寺小野大明神の鐘にして
徳川幕府のころ
当郡
高山城
則 北条氏の築かれし城へ
軍用の為取り寄せ置き
其の後
当郡奉行職長長谷川氏へ
軍功に仍て軍器と共に右鐘拝領相成
当院建立の際納められし鐘也



[E:#x2606] 繰り返すが、これは当時の三浦郡「海宝院」の寺伝であるので「当郡高山城」=「三浦郡高山城」とすると…

三浦郡に北条が築いた「高山」という砦だか陣だかがあって 約百年後(徳川入府のころ)、そこに鐘を取り寄せ置いたと読み取れる。(これも諸先生方に確認済み)。

これは、もしかして新九郎さん こと 伊勢宗瑞が新井城攻めの時に築いた陣ではないか?三浦に「高山」というところがないかどうか、三浦半島の地図を開いたところ、「引橋」や「陣場」あたりに「高山」というところがあることはある。もし、ここが寺伝の「高山」だとしたら、それは、宗瑞の新井城(三崎要害)攻めの時の陣場のことを指しているのかもしれない。


かもしれない というのは、以下より。

[E:#x2606] 「逗子市文化財調査報告書 第二集』逗子市教育委員会」(昭和46年)こう書かれている。

~これら(小野神社・海宝院寺伝・三崎志・新編相模風土記など)を総合すると、北条早雲が三浦道寸の新井城を攻略の際、陣鐘として使用していたものが戦後その陣営地におかれていたものを、三浦郡代官長谷川七左ェ門が海宝院建立のとき寄付したものということになる。 ~


報告書には、早雲が使用して以来そこに置かれていたままになっていたのを、長谷川さんが海宝院に寄付したとあるが、そもそも、小野神社の由緒にも、海宝院の寺伝にも宗瑞のことは書かれていない。

『三崎志』には、菊名に道寸の陣鐘があったとあるが、

『相模風土記』に、菊名は早雲の陣営したところとあるので、

この鐘は道寸のものではなく宗瑞が使ったものだったとなり、

報告書の「早雲が新井城攻略の際使用した」

になったのだろうか?50年近く前の報告書なのでもう分かりましぇん。


そして、最後にもうひとつ。

うぎゃぎゃ~、ほんまこつ、もう、よかバッテン。マリコ・ポーロひとりで悩んでいろいっ![E:#x1F44A] って?というか、もうここまで読んでくださっている方はおらんと思うばってんとってんが、一人ぐらいはいらっしゃるかもしれぬゆえ。


あと少しなので、冒頭の小野神社のすぐ麓の「小野路里山交流館」でチビット一服[E:#x2615]してくだされ。


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~江戸時代の旅籠角屋を改装した「小野路里山交流館」。街道や小島邸を眺めながらコーヒーやうどんがいただける。お土産に里山コロッケや地の農産物なども購入できる。~


[E:pen] 海宝院の、寺伝と鐘の由来書の差異

海宝院には、寺伝のほかに、鐘の由緒書がある。以下、由緒書の全文を4つに分け、↓ を付ける。


① 「鐘高一〇〇・六糎 鐘身七八・〇糎 口径五二・〇糎鐘の銘文によると、応永十年(1403)足利四代将軍義持の頃造られた、武蔵国八王子、小野大明神の宮鐘であることがわかる、文明年間(1469-1486)、扇ヶ谷、山ノ内両上杉氏の戦いの折、山ノ内上杉の兵によって持ち去られ」

② 「やがて永正十三年(1516)、北条早雲が三浦新井城に義同義意の父子を攻めたとき、これを陣鐘として使用したと伝えられている。」

③「徳川家康は、この鐘を八王子横山の高山城に軍用のため取り寄せた。」

④ 「のち長谷川七左衛門長綱が拝領し、海宝院創建のとき寺へ寄進したものだといわれている。 昭和五十年十二月 長谷山海宝院」


同じお寺のものなのに、由来書②&③の内容は、「往古…」の寺伝にはまったく書かれていない。寺伝の方が由来書よりは古いとは思うので、②は、逗子市さんの報告書を元にしたのかとも想像できるが、③は、どこにも書かれていにゃい。

当時のお寺さんは、どこから「家康」や「八王子」を引っ張ってきたのだろう。


もしかしたら、八王子の謎の「高山城」と「拝領」から推定して「徳川家康はこの鐘を八王子横山の高山城に…」としているのかとも思われるのだが、八王子の「高山城」は、八王子衆はご存知だと思うが、かつて発掘調査も行われたものの当時の文書などにはまったく現われず、その時代も機能も正確な場所も良く分かっていない。

また、八王子城は落城直後は上杉が在番しており、その後は大久保殿が代官として派遣されている。家康は落城の一年後に八王子を検分に訪れているが、大久保さんがいるのに三浦代官の長谷川さんがこの地に関係できるとは思えないのだが…。

北条研究の先生や学芸員さん方にこの件を尋ねたが、同様とはいわないが、そんなようなのことだった(もちろん、お寺の寺伝はあくまでもお寺に伝わる話なので…ゴニョ 、と皆さん異口同音の前提の上で)。


それとも、私がまだ見つけられない、家康や八王子が表れている史料が他にも何かあってこの由来書が書かれたのだろうか。

うーん、分からん。何か新しいことが分かったらまた書くことにしよう。まあねえ、戦乱が激しい時代、同じような運命を辿った鐘や仏像はたくさんあっただろうし、溶かされて鉄砲玉にされなくて良かったね。


そして、調べるにつれどんどん興味が深くなっていったこと、もしかしたら新九郎さん こと 伊勢宗瑞が陣場としたかもしれない「高山」を見つけたい。諸先生方にアドバイスいただいたことを参考に、三浦郡(現三浦市)を近々チョイトとうろついて、追ってブログに書きたいと思う。最も私がうろついてみたところで何も分からないとは思うけど[E:#x1F4A6]。


[E:#x2600] 最後に…
色々教えてくださった北条研究の某先生、鎌倉研究の某先生、逗子市さん、三浦市さん、歴史師匠の先輩方、お忙しいのに素人歴史ファンの問い合わせを調べてくださり、また、お返事もくださり本当にありがとうございます。お寺さんのことなので少しオブラートに包んだところもありますが参考になりました。心より感謝申し上げます。


「北条早雲が開基した大船(鎌倉)のお寺」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-64df.html
「北条早雲が焼いた鎌倉の寺々」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-6e83.html

ほにゃ。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

[E:cat] 画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

4月~の小田原北条関係の企画展・講演会(2019)

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by マリコ・ポーロ

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~平成と令和を生きるマルゴー姫 18才なり(内容とは無関係) ~


時々ふいに思い立って更新する、気になる北条関係の企画展・講演会情報です。あらたに情報が入ったら随時追加いたしまする。

北条関係は、マリコ・ポーロ ほぼ行けにゃい。皆さん楽しんできてくだされい。
(ノД`)・゜・


まずは最近ハマっております、興味深いセミナー連発の戎光祥さん。

▲ 戎光祥ヒストリカルセミナー
「北条を倒すのはオレだ!!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~」

日時:4月20日(土)14:00~(17:30 閉場)
講師と講演:
①真鍋淳哉氏(『戦国江戸湾の海賊』、『三浦道寸』の著者)
~海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い~(仮)

 

②中根正人氏(『戦国時代の大名と国衆』内に論文収録)
~関東水陸交通の要衝・関宿城と国衆~(仮)

場 所:TKP新宿カンファレンスセンター

参加費:2,500円(税込)※資料代込
定 員:80名(先着順)
申 込:メールで先着順、4月19日(金)17時まで(定員に達し次第締め切り)

https://www.ebisukosyo.co.jp/page8.html


▲ 早雲公五百年忌記念シンポジウム「小田原北条氏とその城郭」

日 時:5月2日(木・祝)14時00分~17時30分
会 場:小田原市民会館大ホール

講 師:
春風亭昇太師匠、中井均氏、黒田基樹氏、萩原さちこ氏、諏訪間順氏

入場料:全席指定席
前売り券 2,000円(4月30日まで)
当日券  2,500円

前売券購入の方法と場所が色々あるようなので要チェックです。

http://hojosoun.com/2019/04/04/%ef%bc%9c%ef%bc%95%e6%9c%88%ef%bc%92%e6%97%a5%e5%8b%9f%e9%9b%86%e4%b8%ad%ef%bc%81%ef%bc%9e%e6%97%a9%e9%9b%b2%e5%85%ac%e4%ba%94%e7%99%be%e5%b9%b4%e5%bf%8c%e8%a8%98%e5%bf%b5%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d/


▲ 企画展「戦国足立の三国志―宮城氏・舎人氏・武蔵千葉氏―」
足立区立郷土博物館

5月6日(祝)まで

北条氏照友から矢文をいただきました。かたじけない!北条関係の文書が多数出ているそうですよ!

(講演)
①4月21日(日) 14時開始
「岩付太田氏とその家臣たち」
講師:新井浩文 氏(埼玉県立歴史と民俗の博物館学芸員)

②4月28日(日) 14時開始
「戦国時代の全体像と足立」
講師:久保田昌希 氏(駒沢大学教授・前副学長)

会場:足立区立郷土博物館 講堂
申込不要(定員先着80名)
参加費:無料

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/2019sengoku.html


▲ 講座「河越合戦と北条氏康」
日時:5月11日(土) 14:00~16:00
場所:小田原生涯学習けやき

講 師:板嶋恒明氏(歴史ライター)
申込先:北条五代百年その時会事務局へ電話
費 用:500円

https://www.campusodawara.jp/global-image/units/upfiles/2692-1-20190301144928.pdf


以下は小田原北条とは直接関係がないですが、皆様お馴染みの諸先生方の講演も盛りだくさん。「道灌びいき」の会に参加している身としては ひっじょーに!楽しみなり![E:#x1F603]

▲ 「 新田氏展」
群馬県立歴史博物館
4月27日(土)~6月16日(日)

超魅力的な連続講演会、鼎談、講演、見学会、ギャラリートークなどなど多数過ぎて書ききれないので、HPご参照の程。申込が必要なものがあります。

http://grekisi.pref.gunma.jp/kikaku.html


▲「“道灌以後”の戦国争乱 横浜・上原家文書にみる中世」
横浜市歴史博物館
6月15日 (土) ~2019年7月31日 (水)

(講演)
①6月29日(土)
「太田資正と関東の動乱」
新井浩文氏

②7月6日(土)
「葛西城の攻防と東京湾の戦国」
長塚孝氏

③7月13日(土)
「太田道灌の子孫たち」
黒田基樹氏

申込要
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/koudou/see/kikakuten/2019/doukan/


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

 


北条一族の某人物について書いたブログ記事がフリーズしてしもうた…

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マリコ・ポーロ

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( ノД`)
小田原北条の某人物の某事について、3人の研究者の方達の本や「続群書類従」を読み比べ、関連各所を訪ね歩き、博士号クラスの論文と見まごうばかりの(←大ウソ)、超々長文の渾身のブログ記事を書いたのに、編集画面がフリーズしてどうにもならなくなってしまいました。

泣くに泣けにゃい。意気消沈。もう書き直すパワーもにゃい。


最初はPCで作成、保存。

PCやスマホで何度も何度も、何日も何日も推敲を重ね。

ある時、スマホでまた推敲し、「保存」をクリック。

いつものように、「記事が保存されました」となった。

その後、また推敲を続けようと再度スマホで開いたところ!!

文章が全て消えてしまっていた…。
そして、クルクルがクルクルクルクルクルクル [E:#x1F300]。

注)クルクルとは、PCやスマホを立ち上げたり何かを実行したりする時に 丸◎ がクルクルするあの状態


PCの方で開いたところ、文章は残っていて画面には出るのだが、
「長時間実行中のスクリプトが原因で応答しません」と出る。

どこをどうクリックしてもまったく反応せず、x で画面を消すこともできず、フリーズ状態。

つまり、スマホがクルクル [E:#x1F300] 状態のままなので、PCの方もフリーズしているということか???


PCもスマホも、電源を切って立ち上げ直してもダメ。
何度やっても、何日やっても同じ状態。


ココログさんに相談したところ、
「ブラウザでトラブルが起きている可能性も考えられるので、ブラウザのキャッシュ削除を試していただければ」とのこと。

PCでキャッシュを削除してみたが、状況変わらず。
スマホの方も、当該記事のところだけまだクルクルクルクル [E:#x1F300]。記事の文章は現われず。


再度ココログさんに相談したところ、
今回、ココログは全面リニューアル。問題は徐々に解決しているので、それが終わればブログ記事も表れるかもしれない…と。

そんなもんか?


いつもは、万が一のことを考え、「保存」をクリックする時は必ず文章をコピーしていたのに…。返す返すも悔やまれます。

というか、それより、もう一週間も クルクルクルクル [E:#x1F300] で、大丈夫なのだろうか?他の記事に影響しないのだろうか?

ぐったり…。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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上皇后美智子さまの「オーラ」

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マリコ・ポーロ


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~令和元年初日の皇居。お堀に一羽のスワンが悠々と。~


歴史好きとしては、まさか「上皇」というものが存在する時代に自分がいられるとは思ってもみませんでした。チト嬉しい。歴史好きとしては「平成院」とお呼びしたいところですが、時代が違いますな。

ゆったりとお過ごしになられることを心よりお祈り申し上げます。


平成の両陛下とは、ありがたいことに2度遭遇したことがあります。

最初は夏の軽井沢駅。

軽井沢に滞在されていた両陛下が、東京に戻られるために駅においでになった時です。軽井沢本通は大変な人出。なかなか無い機会なので一目ご尊顔を拝そうとロータリーでお待ちしておりました。

向こうから歓声が上がり、お車がゆっくりと徐々に近づいてきました。私達はロータリーのちょうどカーブの絶好のポジションだったので、お車はより一層スピードを落とし、皇后さまが目の前に!


にこやかに手を振られて、なんとまあ美しいこと…。私も小売業人生が長~いので、美しい女優さんはたくさん見てきましたが、けた違い。というか、格違い。とうか、別物(←一緒にするなですが)。

そして、皇后さまのお顔の周りを薄いピンク色の輪がホワ~ンと包んでいるのが、見えたのです。絵画の聖人像などに描かれるあの輪のようにです。


本当に見えたんですよ。後で、その時一緒にいた友人が「美智子さま、ピンクのブラウス着てたよね」と言いましたが、違うんですよ。お召しになっていたのはご静養先でよく着てらっしゃる白いブラウスだったんです。友人にはピンクに見えたんですねえ。

あれが、「オーラ」だったんですね。よく、人気芸能人やスポーツ選手などに会った人が、「オーラがある」とかいう人がいますが、本当のオーラはそんなもんじゃないんだと思いましたよ。


両陛下はエレベーターではなく、外から見えるエスカレーターを昇られ、御体をかがめて最後の最後見えなくなるまでロータリーの人達に手を振ってくださいました。

残るのは、清き余韻…


私達の後ろにいた大学生らしきグループも、隣にいたマダム達も、もちろん私達も興奮冷めやらず、知らない人同士なのに言葉を交わしました。若い女の子達は泣いていましたよ。マダム達も私達も、何故かグッときてしまって話す声が詰まってしまっていました。

不思議なのは、皆が「目が合った」と言うんですね。私も友人も、目が合ったと思いましたし。これはどういうことだろうと考えたのですが、陛下も皇后さまも、たぶん、群衆という集合体に向かって手を振っているのではないのですね。なるべく一人一人に手を振ろうと、なるべく一人一人を見ようとしてらっしゃるのだと思いました。だから、皆、自分と目が合ったと感じるんでしょうねえ。


それまで近代の天皇家にはほとんど興味がなかったのですが、一気にファンになってしまいました。新幹線とホテルがセットになったフリープランで軽井沢に行く超庶民ですが、こちらまで上品になったような気がして、お隣にいたマダム達と「では、ごきげんよう」なんてふざけてお別れしました。

一生に一度、いい経験をさせていただいたと思いきや!同じ友人と下田に行った時にまた遭遇した…いや、させていただいたのです。


下田から帰る列車が蓮台寺駅を出た時(入る時だったかな?)に、下り列車待ちでいったん止まりました。単線になるので止まることは良くあるのですが、その時は下り列車も並んで止まりました。フト下り列車を見ると!!!

窓に天皇陛下がいらしたのです!!!


車内騒然!

下田駅を出る時には、両陛下が今日いらっしゃるということで人がたくさん集まってはいました。しかし私達は列車の時間があったので、いや~ニアミスぅ、と残念に思っていたのですが、なんと、ここでお会いできるとは!!!


平日だったので車内には十数人しか乗っておらず、みんな集まって手を振りまくるまくる。陛下の後ろからは皇后さまがお顔を出してくださり、車内大歓声!

やはり大学生の男の子達が写メを撮り、上手く撮れたのか恐れ多くも、陛下に向かって指でオッケー[E:#x1F44C]。陛下は尚一層ニコニコお笑いになって皇后さまに何かおっしゃると、皇后さまも尚一層窓に近づきニコニコニコニコ。大学生は、「いや~、マジ幸せ~~。待ち受けにしよ~」って。

私も撮らせていただけばいかった~。待ち受けにしたかった~。皇室にまったく興味がなかった友人なのに、「2度あることは3度あるっていうから、私達ふたりの時にはもう一度お会いできるわよ」と、すっかりシンパに。今のところ3度目はまだないですがね。


実は、以前に長年働いていた会社の関係で、店では店長だったのでその頃は皇族の方達にはよく接客させていただき、お届けに上がるなどということもあったのですが、平成の両陛下をお見上げ申しあげたことはありませんでした。この2回は、本当に得難い経験でした。

2度あることは3度あるの3度目は、上皇様(上皇様だってキャ~[E:#x1F49B])・上皇后様となられたこれから後にやってくるのかな。3度目、あるといいにゃ~。

令和の御世も平和でありますように。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

北条氏照の「大善寺」と「土方能」

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マリコ・ポーロ


ご無沙汰してしまっています。ブログ屋さんのリニューアル以来、どうもブログ記事の投稿がうまくゆかず、筆が進まずにいました。これだけの大ブログ屋さんですからニューアルはそりゃあ大変なこととお察ししますし、どのブログ屋さんもいつかはやらねばならぬことなのでしょうから仕方がないですな。

今までのブログ記事も、開いてみると妙に行間が開いていたりしてカッコ悪く&読みづらくなっているものがありますが、そこんとこご容赦を。


▲ 峰岸純夫先生の講演 at 大善寺

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~観池山往生院「大善寺」堂内~


さて、
「旧八王子城を守る会」の盟主である、我らが!峰岸純夫先生の講演が、先日八王子の「大善寺」にて行われました。「大善寺」は我らが!北条氏照開基のお寺ですが、マリコ・ポーロとしたことが行ったことがありませんでした。この機会にと初めて参った次第。

開山は、八王子の名僧、我らが!讃誉牛秀上人(牛秀上人については文末添付のブログ「新選組と北条氏照の日野」をご覧くだされ)。天正13年に滝山城下に開かれましたが、八王子落城後は数回移転し現在は富士見台霊園として八王子大谷にあります。八王子駅からはバスで 7-8分+徒歩(行きは登り坂でけっこうあり、帰りは下り坂でそこそこある)。


徳川さんの頃もかなりの庇護を受け、広大な寺領と多くの伽藍を有し、末寺は23ヶ寺もあったそうです。また、明治の御世にも勅願所として寺勢を誇ったお寺とのこと。

だから、お寺のアチコチには天下御免の葵の御紋。我らが(←しつこい)三つ鱗▲▲▲をチビットだけでもいいからどこかに付けてくれぃ!


気になったのは、上の写真のお姫様。「機織姫」だそうです。

な~る。境内に織物の神様を祀る「機守神社」があり、さすが絹織物の町八王子!と感心したのですが、それでなのですね。姫様の隣の、葵の御紋のお厨子に神社の御本尊(つまり神像?)が納められているそうです。


そして、八王子の絹織物は松姫様からだとばかり思っていたら、八王子の絹織物は桐生からきているとのこと。へえ~~。

八王子の絹織物ではネクタイが有名ですが、八王子では、我らが三つ鱗柄のネクタイも販売されているのですよん。


「大善寺」は「お十夜」と呼ばれる十夜法要でも知られています。関東三大十夜だそうです。大善寺の十夜法要は、天正18年の八王子城戦での犠牲者(特に檀家の犠牲者)を弔うために始まったものです。

徳川さんの時代も続けられていたのは凄いと思いますが、いったん休止し、近年再開しました。模擬店や催しがあるそうですが、こちらもまだ行ったことがありません。


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~ホワイトボードの上に見えているのが先生、ボードの横が御本尊…あ、ちゃうちゃう!横が先生。上が御本尊の阿弥陀如来様。~


昨今、お寺さんも仏教行事以外の様々なイベントを行っていますね。我が家のお墓があるお寺でも、真夏の夜に本堂で「芳一」の琵琶演奏会(怖すぎるぅ)や落語や武術の会を開いたりしています。

大善寺さんも「お寺の学校」として月に一度講演などを開催しているそうです。この日の先生のテーマは「相模北条氏の武蔵新出と北条氏照の八王子入部」。本堂は満席。真剣にメモを取ってらっしゃる方もいて、ご著作の本も売れていました~\(^o^)/。


が、しかし!
どなたからも(道灌びいきの会でも)、何度聞いても、享徳の乱・長享の乱・永正の乱などを、聞いている時はフムフムと分かっても、それを人様に理路整然と説明できにゃい。不甲斐ないぞ、マリコ・ポーロ。


▲ 新作能「土方歳三」

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~土方歳三 新作能「BLUE Blood」~


さて、もうひとつ八王子周辺の話。

我らが土方歳三は、北条氏照の生まれ変わりであるからして、当然大々々々好き。(誰もが認める根拠?は文末に添付したブログ記事を是非!ご覧くだされ。)


今年の「ひの新選組まつり」は、ちょうど土方さんの命日である 5月11/12 日になりました。そうです!我らが北条氏照の命日も 11日でござりますな。

お能には、歴友さんが誘ってくださいまいた。


「BLUE Blood」は、重要無形文化総合指定保持者である観世流の能楽師山中迓晶氏が、土方さんの没後150年にあたる今年のために書き下ろした新作能です。土方さん役ももちろんご本人。若くイケメンです(面をかぶっちゃうけど…)。

客席には「誠」のハッピを羽織った和装の若い人も、お着物の地元の年配のご婦人や紳士もたくさん。お祭りの雰囲気が溢れていました。


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~駅も誠だらけ。駅員さんも誠の法被です。~

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~タクシーも土方さん!~


お能の会場で配られたのは筋書が書かれたパンフレットではなく、なんと、台本!
ドびっくり~(*_*)。

これは貴重ですねえ。


[E:#x266A] 風吹く方に咲く花のぉ~
風吹く方に咲く花のぉ~
土に散り積み埋むらん

少年登場。
「これは土方歳三の身内に仕え申す。市村鉄之助と申すものなり。」


おお!鉄之助くんですか!いきなり盛り上がるぅ!

鉄之助くんがお琴ちゃんに語る、五稜郭での仕儀。差し出すのは片身の品。


そして土方さん登場!

「よしや身は。蝦夷が島根に朽ちぬとも。魂は東の君や守らん。」

テンションMAX!


語るは池田屋から伏見、流山(涙~)、沖田総司との別れ、仙台、蝦夷…

じ~~~ん[E:#x1F4A7]


[E:#x266A] 月見るごとに思うかな~
月見るごとに思うかな~
明日は屍の上に照る。
月の光に隠されて。
星の煌めき失せにけり~。
星は流れて失せにけり~。


堪能~。

そして我らも、失せにけり~。


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

「土方歳三は北条氏照の生まれ変わりである」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/in-012e.html
「北条家ホームドクター田村先生の日野「安養寺」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-6642.html
「北条氏照と土方歳三の国府台城」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b174.html
「新選組と北条氏照の日野」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2625.html
「麗しき、武田の「松姫さま御坐像」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-97b5.html
「『未完の多摩共和国~新選組と民権の郷』」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-be7c.html
「土方歳三の「宮古湾海戦」」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-282c.html


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

三浦道寸の娘は宅間上杉に嫁いだのか?

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by マリコ・ポーロ

シリーズ北条五代の息女たち
【二代:北条氏綱の娘たち、太田資高室~浄心院は北条氏綱の娘か?三浦道寸の娘か?】


先のブログに書いた、フリーズしてしまったブログ記事が1ヶ月後の今、突然現れ動き出しましたのでアップします。理由は分かりません。また、今まで書いた記事が、妙に改行されてしまっていたりしてカッコ悪くなってしまっています。でも、600以上の記事数を全部チェックして修正は出来ず、残念です。

さて、今回の内容は…まあ、こんなもんです。期待させてゴメンナチャイ
(^^;


Img_20190408_134022
~宅間上杉屋敷跡…ではないか?と言われる横浜上永谷の丘に、凛然と立つ一本桜。眼下( ↓)に永谷天満宮が見える。~


今までのあらまし

当ブログで足かけ4年にわたり続けているシリーズ「北条五代の娘たち」。関東公方、今川、吉良、葛山など当時の有力武家に嫁いでいるにもかかわらず、特に初代宗瑞と二代氏綱のほとんどの娘達についてはよく分かっていません。そのため調べることや訪ねる所も多くなり、いまだ氏綱の娘たちのを足跡を辿っている途中です。

中でも謎中の謎なのが、太田家に嫁いだ二代氏綱の娘、浄心院日海 です。なぜなら、資史料を読んだり縁の地を巡っているうちに、同じ法名の、同じ没年月日の、同じ菩提寺の、もう一人の「浄心院日海」に出会ってしまったからです。


その女人は、三浦道寸殿の娘でした。

あらたにご興味を持ってくださった方は、浄心院を追って江戸や安房を歩き回った今までのブログ記事をご覧くださるととっても嬉しいです(文末リンク)。


[E:#x1F377] 二人の浄心院

(北条浄心院)
父:北条氏綱
夫:太田資高、太田道灌の孫で江戸城にいた

(三浦浄心院)
父:三浦道寸
夫:太田資康、太田道灌の息子で三浦へ援軍した

私は北条から入ったので、北条の娘=浄心院日海 だとずっと思ってきましたが、三浦氏や太田氏を研究されている方達は、三浦の娘=浄心院日海 と思っている方が多いようです。この違いは面白いですねえ。


図書館へ通い、三浦浄心院のことも色々調べました。しかし、残されている三浦浄心院の記録は、北条側から入った私からすると、実家と夫が違うこと以外は、まるで北条浄心院をコピペしたかの如くでした。どうにも分からんのでござりまする。

私なぞより、本物の浄心院さまの方が戸惑っているでしょうし、もうお一人の浄心院日海だとされた女人の方は、自分の人生が違えて後世に伝わっていることに淋しい思いをしてらっしゃるかもしれません。


[E:#x1F40E] 新資料(マリコ・ポーロ的に)

浄心院が氏綱の娘であることについての資史料はこれ以上見つけられなさそうなので、道寸の娘の足跡を辿ってみる方が早いかもしれないと思いました。と、そんなところへ小田原の北条師匠から衝撃の矢文(←オーバー[E:#x1F4A6])が届いたのです!

「新横須賀市史補遺編(平成23年)」に、道寸の娘が「宅間上杉顕重に嫁いだと推定される…」とあるのをみつけてくださったのです。かたじけのうござりまする!真偽のほどは分からないが、系図が載っており、その解説に書かれているとのことでした。


詳しく知りたかったので他にも書かれたものがないか図書館ホームページで検索しまくったところ、市史の他には、「関東上杉氏一族 (2013)」という、またもや黒田氏のものと、湯山学氏「中世史論集~関東上杉氏の研究 (2009)」しか見つけられませんでした。

▲ 黒田氏「関東上杉氏一族」 p364~ 367 あたり
▲ 湯山氏「関東上杉氏の研究」P271~281 あたり& P298~303(六郷殿について) あたり

まずは市史を読んでみましたが、市史は、黒田氏がこの本 ↑ に書かれている説を採ったものでした。横須賀市もか…。


それらによると…

三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、「清音寺本」系図にあるようです。「清音寺本」とは、江戸時代に水戸藩によって編纂された系図集「浅羽本」に掲載された上杉系図の、常陸清音寺に伝来されたと思われるものだそうです。そしてその清音寺本は今は伝来されていないとのこと。

その頃の道寸殿は山内方ですので可能性はありますな(あくまでも可能性のひとつですが)。宅間については、尊氏さまの母上の実家で、後半は北条につき、為さま衆(北条為昌の本光院殿衆)に組み込まれたことぐらいしか知りません。この機会に色々と読んでみたかったのですが、書かれているものは少ないのです。


Img_20190408_201710
~永谷天満宮から宅間屋敷跡(とも言われている)の丘を眺めるの図。~


[E:#x1F40E] 「清音寺本」のくだんの部分

ここで、湯山氏と黒田氏の本&市史に載っている「清音寺本」の、肝心なその部分を抜粋してみます。色と数字は、分かり易くするために(自分が)マリコ・ポーロがつけました。←かえって分かり難いぞー!という声も聞こえるが…。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


この清音寺本によると、宅間は、太田道灌によって取り立てられ → 何代か続き → 新九郎さんの相模攻略時に江戸へ逃れ → 岡田さんの取り成しで北条の元において家を存続させたのですね。

そして、ありますねえ。⑤の新五郎さんが、三浦の婿になっていると。


[E:#x1F40E] 「新五郎」って誰?

この時代の常で、「①楊江院」とか「②左衛門」とか「③名前の記載がない」とか「④寧蔵主・六郎」とか「⑤新五郎」とか「⑥極楽寺宝塔院」とか「⑦十郎」などで書かれており、ヤヤコシーですねえ。


新五郎の妻 について黒田氏は、道灌が取り立てた時代や宗瑞が入国した時代などから、新五郎さんの妻道寸殿の娘 と思われるとしています。また、湯山氏の方は、私が読んだ限りでは、「相模三浦の一族との交渉もうかがえる」としか書かれていないようで、新五郎さんには触れていませんでした。

 

湯山・黒田の両氏は、それらを他の上杉系図や年代などから割り出してくれています。

ところが…
違うんですよぉ。湯山氏と黒田氏の解釈が…。


上杉系図はあまたあれど、ワテが参考にしたのは「続群書類従」です(で、いいのかな?)。(中には、憲能のひいおじいさんの兄弟の方へ続いている系図もありました。)



Img_20190416_140207_1 


[E:#x1F40E] 誰が誰?

以下に、お二人の違いを挙げてみました。ややこしいのでメンドクチャイ方は次の、[E:#x1F40E]早い話が…まで、すっ飛ばしてくだされ。


湯山氏の系図は「続群書類従」掲載の系図類とほぼ同じで、* はマリコ・ポーロの補足

Photo_6  
~「続群書類従」~


Photo_5  
~黒田氏の本&横須賀市史~


① 揚江院
湯山氏の本(=記載なし/ ②左衛門の父を憲能とする)
黒田氏の本(=憲能/ ②左衛門の父)

② 左衛門
(=憲清/ ①憲能の子)
(=   〃/      〃         )

③ 早世した子息
(=定兼三郎)
(=    〃    )


④ 寧蔵主・六郎
(=六郎・朝重/ ②左衛門の弟)
(=六郎掃部助・定朝/ ②左衛門の孫)
も、定朝を②左衛門の孫としているが、定朝を六郎とはしていない。


*「能香
両氏とも「清音寺本」の系図には当てはめていないが、①憲能の子に 能香 という重要人物がいる。

(能香/ ②左衛門・④六郎・⑥宝塔院とは兄弟の、「六郷五郎(上杉五郎)」と呼ばれた人物としている。)
(能香/ ②左衛門 とは兄弟だが、④六郎・⑥宝塔院とは兄弟ではなく、甥の子供としている。)


また、能香の妻については、
(六浦の武田氏/ 橘樹郡の農家の記録より)
三浦道寸の養父であった三浦高救の女兄弟) 

なんだか、このへんアヤシー。。。


⑤ 新五郎
(記載なし)
(顕重/ ②左衛門の孫であり、定朝(黒④六郎)と ⑥宝塔院 の弟としている) 
*湯は、顕重を ⑦十郎  としている(⑦を参照)。


⑥ 極楽寺宝塔院
(宝塔院恵胤/ ②左衛門の弟)
(乗忠(国)/ ②左衛門の孫)
*湯は、乗忠(国)を ②左衛門 の曾々孫としている。

十郎
(顕重/ ②左衛門の曾孫)
(乗方/ ⑥ 宝塔院の孫)


以上ですが、ここでもう一度、「清音寺本」のくだんの部分を見てみましょ。


「清音寺本云……其後 楊江院ノ代ニ。宅間ノ家ヲ江戸ノ道灌取立。楊江院ノ左衛門 息早世。其子寧蔵主ト云人還俗シテ六郎殿ト号。宅間ヲ継。六郎無子。而六郎弟ニ喝食アリ。是を束髪シテ号新五郎。三浦ノ婿ニナル家ヲ継ギ。六郎・新五郎。宗雲入国ノ時牢人シテ江戸ニテ死。新五郎ノ 中兄 極楽寺ノ宝塔院ト云律宗ニナル。後ニ岡田取成ニテ。宗雲ニ云ナシ。束髪宅間ノ家ヲ継。其子今宅間也。家名十郎殿。天文十八年比ハ廿七八歳ノ人也。其子太郎ト云々、」


[E:#x1F40E] 早い話が…

つまり、湯山氏(&続群書類従)と黒田氏(&横須賀市史)は、①憲能(揚江院か?)がいて、その子の②左衛門が憲清。その子が三郎(早世)までは同じ。そこからが違ってくるんです。

うにゃにゃ [E:#x1F61E]
こんな書き方じゃ、何がなんだか分かりませんよね~。何が言いたいかと言うと…


▲ ⑤新五郎さんという人は、やはり、湯山氏・浅羽本はじめ上杉系図には出てこなくて、今は伝来していないという「清音寺本」にだけ出てくる。

▲ というか、そもそも ⑤新五郎さんの 兄弟だという ④六郎さんの比定が双方で違う。湯山氏の本では ②左衛門の「兄弟」になっており、黒田氏の本では ②左衛門の 「孫」になっている。

▲ 従って、④六郎 と兄弟だという ⑤新五郎は、黒田氏の本では 「顕重と思われる」とあるが、浅羽本はじめ他の上杉系図では、顕重は ②左衛門の 「曽孫」である。


う~ん。やっぱり何を言っているのか、話は早くなく、ワケが分からないですよねえ。すまんことですたい。


三浦の女人の兄(弟?)である道寸の息子義意の生年は、明応5年(1496年)とされていますから、女人もその頃の生まれとし、新五郎さんちが没落した宗瑞の相模侵攻を 永正の 1509~1516 あたりとして…(こんなことばっかりやってる[E:#x1F4A6])

あにゃ~、なんとなく、三浦の女人の年齢が合わなさ過ぎるような気がしないこともにゃいねえ。

ま、エエわ。


[E:#x1F40E] 疑問

▲ この「清音寺」の宅間氏系図はどうやって出来上がったのでしょう。

▲ 道寸娘=宅間の妻 が本当なら、なんで江戸時代の三浦さんたら、道寸の娘を太田さんちに嫁いだことにしちまったのかいにゃ?系図というものはどこまで本当なのか…ゴニョゴニョ ですが、清本寺本だけ他の系図と違うのも妙ですかね。こりゃまた分からんのう。


[E:#x1F40E] 別の説~真鍋淳哉氏

先日、戎光祥ヒストリカルセミナーの真鍋氏の講演の時に『三浦道寸』を購入。読んでみました。

道寸の女(娘)は今のところ一人とされていますが、真鍋氏『三浦道寸』には、娘は二人いて、それぞれ太田さんちと宅間さんちに嫁いでいるとしています。そして、宅間さんちのことは「黒田氏の説より」とあります。真鍋氏もか…。


[E:#x1F40E] 別の説~戸塚市郷土史

今のところ、三浦道寸のお嬢さんが宅間上杉に嫁いだということは、江戸時代の水戸家が変遷したこの「浅羽本の清音寺本にある」という書き物だけです。また、これらのどこにも道寸の娘の法名のことには触れられていませんので、

道寸の娘 ≠ 浄心院日海

とすることは出来ません。しかし、清音寺本だけからすると、道寸の娘の夫である新五郎さんは江戸で亡くなっているようですから、妻もそれまで生きていれば江戸で亡くなっている可能性はありますね。


いっときは、北条浄心院=三浦浄心院、同一人物(三浦が滅ぼされた時、道寸の娘は氏綱の養女になり太田資高に嫁いだ)も考えましたが、やはりどうも年代に無理がありそう。分からんのう~~~。分からんが、こういうのを調べていくのは楽しいです。


しかし…
フリーズしてから一ヶ月。その時は夢中で書いたのですが、一ヶ月も経ってあらためて読んでみると、自分でも何書いてるんだか良く分からなくなってしもうた。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。


以下は、まだまだ途中のシリーズ「北条五代の娘たち」のうちの、浄心院日海について書いたものです。

「北条五代の娘たち ② 太田資高室~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/201/post-3f58.html
「江戸編~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/post-aaec.html
「祖父道灌が誅され、父資康が三浦へ行った後、資高はどうしていたのか?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-92ee.html
「安房編①~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-69b9.html
「安房編②~浄心院は氏綱の娘か道寸の娘か?」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-dcd4.html


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

北条氏綱が、三浦道寸ではなく息子義意を祀ったのは何故だろうか?

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マリコ・ポーロ


その祟りを恐れ、その霊を鎮めるために、非業の死をとげた者を神として祀ることがあると言われます。

古くは早良親王、淳仁天皇、菅原道真、平将門、崇徳上皇…。新しくは、為さま(北条為昌の本光寺)…は違いますか。もちろん、素晴らしい功績を残した人がお祀りされ、尊崇を集めることも多いです。


 Img_20190602_145232

~居神神社本殿~



小田原には、三浦道寸殿の子息である義意殿を祀る「居神神社」という神社があります。旧東海道に面し、板橋見附、総構早川口に鎮座。本城小田原の西の出入口という重要な場所に位置し、旧板橋村の鎮守でもありました。

 

Img_20190603_111643
グリーン でマークしたところ(小田原市観光ガイドマップより)~


創建は永正年間とのみで今まで不明でしたが、近年、小田原の郷土史家石井啓史氏により、永正17年 であることが明らかになりました。

「(神奈川県タウンニュース)居神神社に「勝って甲」碑 創建は永正17年と判明」https://www.townnews.co.jp/0607/2018/01/13/415108.html
「(伊豆さがみ情報ネット)居神神社に「勝って甲」碑建立/郷土史愛好家・石井啓文さん 創建年など解明」
http://izu-sagami.jp/?p=2397


北条ファンには、太田(三楽斎)、佐竹、真田など敵方の、特に最後まで北条と戦い抜いた武将が大好きで詳しい人が多いです。三浦道寸殿もとても人気がありますよね。

かく申す私も、このところ、「二人の浄心院日海」のことで三浦半島のことをあらためて考えております。先日は、戎光祥ヒストリカルセミナー「北条を倒すのはオレだ!!~海と川をめぐる戦国大名の戦い~」にて、真鍋淳哉氏「海をめぐる北条・関東上杉・三浦・里見の戦い~」の講演を興味深く拝聴してまいりました(もっと熟考把握したらアップするかもしれません。今はチト難ちぃ[E:#x1F4A6])。


さて、

居神神社は、我ら北条ファンにとっては道寸殿の子息である義意くんの首級の言い伝えで知られています。これは、皆さんもご承知のように後世に作られた物語本の話です。義意くんが大男で剛力の強者であったことも、然り。21才で人生を終えてしまったので、その活躍もよく分かりません。


敵の将をどこか別の場所ではなく城下に祀るというのも不思議ですが、祟りを恐れたり霊を鎮めるためなら、義意くんではなく父親の道寸殿を祀るはずなのに、なぜ義意くんだったのだろうかと、ず~っと思っていました。

若くして戦場に果てたので哀れに思ったのでしょうか。それとも、大将の道寸殿を供養するには憚りがあったのでしょうか。


居神神社の創建や社名の由来について知ったことを書こうとも思ったのですが、にわか知識で書いても、義意くんの首級のように作り話が広まったら申し訳ないので(読んでくださっている方はそんなにいない弱小ブログゆえそんなに広まらないが)、ここはひとつ、興味ある方は文末に添付した石井さんの研究記事をご覧くだされ。


Img_20190602_145259
~北条ファンにはお馴染み。氏綱公置文「勝って甲の緒を締めよ」碑~


義意くんの逸話は境内の説明板にもありましたが、三浦の方々からの要請で昨今撤去されたそうです。そうだよね~。よっく、分かりますよ。私も、氏政さんの「汁かけ飯」の作り話が書かれたものを世界中から撤収したいもの。

代わりと言ってはなんですが、神社に義意くんを祀った北条氏綱公の碑が出来ていました。氏子さん達の寄附にて建ったそうです。立派な字は、宮司さんの奥方様によるものです。


Img_20190602_145209
~本殿はけっこう高台になる~


[E:#x266A] 晴れた~ 午後には 遠く
三浦岬も見えるぅ~

ユーミン 海を見ていた午後で


少し曇った涼しい日だったので写真には上手く写っていないですが、石段を登った本殿から相模の海を眺めると、向こうに三浦半島が見えます。

氏綱公はこの地にあった山角屋敷を移してまでして、ここに義意くんを祀りました。もしかしたら、義意くんが育ち一族と共に果てた地、三浦の地をいつも見えるように…と思ったのかな。

なーんちゃって。

マリコ・ポーロ こと 萩真尼


[E:#x1F40E] 石井氏のブログ記事です
「敵将三浦義意を祀った居神神社と北條氏綱」
http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2017/11/post-11e1.html
「居神明神社と三浦氏関係の新史料」
http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-ea89a0.html
「検証・居神神社名の由来」
http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2019/05/post-f868a5.html

など。

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落城・開城イベント~八王子城と津久井城(2019)

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マリコ・ポーロ


落城した城跡の落城日には、敵味方問わず犠牲になった人達を悼みたい。

007-2
~旧八王子城を守る会では、落城忌の集いでお赤飯を食べた~


何度か書いている繰り返しで恐縮ですが、現代の八王子城周辺に住む人達は落城日にお赤飯を食べたそうです。これは、八王子城戦で城山川が血にそまり、しばらくの間川の水で焚いた飯が赤く染まったという伝承からくる、供養のひとつでした。しかし最近は新しい家が増え伝承をご存知なく、お赤飯を食べる家も少なくなったそうです。



今年もまた小田原北条落城・開城強化月間がやってきております。一年あっという間ですねえ…。小田原北条落城・開城月間についてはこの10年毎年たっぷり同じようなことを書いておりますので、ご興味あらばそれらをご覧くださるととても嬉しいです。

話はそれますが、今までの落城・開城月間の厖大な数のブログ記事をどうにかしたいです。毎年同じことを書くのもなんですし…。


さて、本題。

今年の落城・開城の催しを2つご紹介させていただきます。



▲ 我が氏照どのの八王子城

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~八王子の住人さんに送っていただいたポスター~


「八王子城跡まつり」
日にち:6月23日(日)

まさに落城した日(旧暦)です。

様々な催しがありますね。個人的には、落城した日には、八王子市さんには供養的な法要などをやってほしいな~と思うものです。落城した日に、敵味方共に多大な犠牲者を出したその城跡で鉄砲をぶっ放す…。鉄砲を討つというのは、何か弔意的なものもあるのでしょうか?詳しくないので分かりませんが、それにしても私の感覚ではチョット辛いものがあります。


実のところ、自治体が宗教的行事を行うのは難しいものだということもあります。今回は市が主催ですからアミューズばかりになっているのでしょう。

ガイドさん方はその前にお墓参りをすると思いますし、まあ、こんなメンドクチャイことを言うのは、百言居士マリコ・ポーロだけです。


▲ 津久井城

Photo_7
~津久井湖城山公園のHPに出ています。http://tsukuiko-ibento.blogspot.com/2019/05/429.html~

「津久井城開城記念の日」
日にち:同じく6月23日(日)


津久井が開城したのは6月25日です(旧暦)。イベントなので日曜日に合わせたのでしょうが、八王子と重なってしまいましたねえ。

こちらはありますね!お墓参り。知り合いの武将さん達も参陣します。本城小田原も鉢形も玉縄も、また、落城・開城ではないですが三増合戦まつりなども、一般ファンが参加できる供養の法要的なものがありますよね。それらは必ずしもお寺でだけではなく、旧八王子城を守る会の落城忌でも、宴(単なる飲み食い)の前には城内で般若心経を唱えます。


記念講演もありますね!ちゃんとした資史料や発掘調査に基づいた講演会です。妄想講演会ではないですね。

地域の歴史って、こうやって伝えていってほしいな~と思います。私はね。地域の歴史は、日本の歴史にも繋がっていきますもんね~。


▲以下、この10年でこってり書いた厖大な数の八王子城落城についてのブログ記事の超々々々一部です。

「小田原城開城へ、最後の6ヶ月」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-f53a.html
「今年は、ぼっち 八王子城 落城忌…かと思ったら(2018)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-3231.html
「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2017/06/post-cfde.html
「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/2012-9f22.html

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/423-7fbc.html
「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」
http://maricopolo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-bc8f.html


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

輪島塗と「アンテナショップで利き酒を」

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マリコ・ポーロ


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~アテの焼きフグ(真ん中の串に刺さった細長いの)が特に美味しかった。今回は写真がボケボケだらけの巻。~


久々に輪島塗のことを書きます。

まずは…
「ティファニーで朝食を」ならぬ「アンテナショップで利き酒を」。たまには気分を変えてと、石川県のアンテナショップの利き酒イベント [E:#x1F376] へ参加しました。

以前から時々書いておりますが、遥か昔、輪島塗の販売に携わったことがあります。歴史好きの皆さんもそうでしょうが、私も日本の伝統工芸が大好きです。超々不器用なので製作は無理。せめて販売を通して伝統工芸の存続に少しでも貢献したいと当時は張り切っていました。しかし、なかなか諸事情難しかったです。


今でもそう思っておりますが、寄る年波になるとなかなか場がにゃいです。え?なんで?伝統工芸品ならかえって年配者の方がいいのではないの?と思いますか?そうではないんですよねえ。

一般的に古臭くて昔風と思われてしまうことが多い伝統工芸品を現代でも使ってもらえるように広めていきたいと考える場合、年降りた人間が店に立っていると、現代風にデザインされた商品も古臭い商品に見え、モダンなお店も古臭いお店に見えてしまう…という構図です。古臭いの連呼で申し訳ないが、若い人が店に立てば、「あら?ちょっと今風かも」となりますでしょ。

えーん ( ノД`)


Img_20190617_094949
~輪島から能登半島内陸部への林道を往くと、眼下に突然現れる山あいの小さな集落と美しい棚田。(昔撮った写真の写真を撮った)~


こたびの利き酒は、輪島の日吉酒造さんでした。輪島の商店街の真ん中あたりにある酒造&販売店です。お酒は、吟醸、純米、醸造酒の3種類。アテはそれぞれに合わせて、輪島のビーフジャーキー、輪島のホタルイカの沖漬け、輪島の焼きフグ。どれも美味しかったです。

能登のお酒では日吉酒造さんの他に、白藤酒造さんの「奥能登の白菊」、宗玄酒造さんの「宗玄」が好きです。私は。


お土産に、輪島の「えがらまんじゅう」を買いました。クチナシで染めたモチ米をまぶして蒸しあげた黄色いおまんじゅうで、能登や金沢の名物です。粟(あわ)まんじゅう にチョット似たお味と食感で美味しいですよ~。

写真を撮る前に食べてしまった!インスタ映えするのに。インスタやってないけど…。

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~輪島朝市の えがらまんじゅう屋さん(同じく昔撮った写真の写真を撮ったもの)~


アンテナショップは今どこも様々なイベントをしていて、イートインもありますし楽しいですよね。お金遣っちゃいますが。


そして輪島塗のこと。
以下、ブログを始めた頃に書いた輪島塗の記事です。今読み返すと分かったようなことを書いていてお恥ずかしいですが、少しでもご興味持ってくださったら、たまには気分を変えて読んでいただけると、とっても嬉しいです。(タイトルをクリックしてくださいませ。)

「漆の木[E:#x266A]人生ぃ~20ねん~[E:#x266A]」

「木地師 山中の虎」

「続・木地師「山中の虎」と「近江小椋谷」」

「漆の上塗りは水をかぶって裸で!」

「金を蒔く蒔絵、金を沈める沈金」

「塗師屋のおやじ」

「あぶらとり紙は金箔屋がつくる」

「根来寺と根来塗(ねごろぬり)」

「司馬遼太郎さんにカブレてゆく、根来(ねごろ)」

「朝ドラ 「マッサン」とウィスキー」

「「北条ワイン」でクリスマス」

「小田原城天守閣木造再建と、匠の技の継承」


萩真尼 こと マリコ・ポーロ

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。


小田原北条家と猿楽の宝生大夫

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マリコ・ポーロ

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~『匠明』(しょうめい)鹿島出版会 / 『戦国武将と能』雄山閣~


いささか気になることがあり、戦国時代の猿楽についてチビット調べていたところ、北条師匠が、小田原北条家が贔屓にした宝生家の猿楽師の名前が分かることを教えてくれました。



小田原の芸能集団といえば、まず思い浮かぶのが「舞々の天十郎」。舞々とは神社に奉納する大道芸のようなもののようですが、氏綱の頃から大道芸能者や陰陽師や平家琵琶の座頭などを天十郎に統括させていたと、『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』(下山治久)で読みました。

天十郎大夫は庶民向けとしまして、武家向け(むけむけだね)といえば「宝生大夫」ですよね~。


三代氏康の頃になると、全国から貴賤問わず様々な人達が小田原にやってきます。大和猿楽四座もそうです。天文14年の松原神社の「前庭」での興行の様子が『北条五代記』にありますね。

今まで小田原北条の猿楽にまで興味が広がらなかったので、大和猿楽座の宝生大夫のことも、応仁・文明の乱で荒れた京の都から各地に下り、小田原に庇護を求めた…ぐらいの知識しかありませんでした。


名前が分かるとのことなので、現代の宝生流のHPを見てみました。あら~、ほんとですねえ。出ていますねえ。北条時代の小田原では三代で、「一閑」「重勝」「新次郎」だそうです。

もうチョット詳しいことが知りたいにゃ~と思って、トップの画像の『戦国武将と能』(曽我孝司)を読んでみました。もうチョット詳しいことが書かれていました。


▲ 宝生大夫

それは、『大乗院寺社雑事記』にあるそうです。大和(奈良)の興福寺大乗院で室町時代の三代の門跡さんが記した日記だそうな。

宝生大夫は、まず周防の大内氏の元へゆき、その後各地を流浪し、天文年間に氏綱の元へ来て、子・孫と三代にわたり北条お抱えの大夫となったそうです。


また、『北条五代記』には、宝生だけではなく大和猿楽四座の「大夫達と囃子方がこぞって小田原に下り、生計を立てていたとの記述」があるとしています。以下一部抜粋。

「宝生は北条家の大夫と号し、金春八郎・落観世、金剛大夫……此四座の役者、脇は金春源七、宝生新左衛門、太鼓は三谷大蔵、仁助、威徳三郎四郎、小鼓の美濃意楽、宮増弥右衛門、金春権助、太鼓は奈良新八郎、五野井、笛は彦兵衛、助三郎、狂言は五右衛門、鷺大夫、此人々は小田原にこぞり居て、渡世を送る…」

面白いです~。こぞりて…というか、ごっそりといますねえ。


▲ 八王子

『北条五代記』には、お囃子方の動向がもっと書かれているんですねえ。

「佐藤は太鼓、山室は小鼓、霞斉は太鼓、此三人は三浦三崎に有りて其の芸を教え、嶋屋親子は武州八王子に有りて、近国を行めぐり勧進能して力をすぐる。一不は笛ををしへ、渋谷はうたひををしへ、武州品川の里に居住し、暮松は江戸を栖として、神田明神の祭三年に一度の神事能をまもり…」


ここで、ちょっと待った!
嶋屋親子が、武州八王子ですと!?

初耳ですな。八王子では「宗阿弥」という猿楽師が有名です。相即寺だったか大善寺だったか(うろ覚え~)の、八王子戦の犠牲者過去帳に名前だけがあると、旧八王子城を守る会の重鎮(?)たちに伺ったことがあります。名前だけなので、どういう人物かは定かではありませんが。


そりゃあ我が氏照も戦国武将。そのうえ、「武」だけではなく、初代新九郎さん(宗瑞)の教えで「文」も重んじる北条家の御曹司。猿楽の嗜みのひとつやふたつはあったとは思いますが、歌舞音曲に関する氏照の史資料は私は見たことがありません。笛「大黒」のことも後世に作られたお話ですよね。

氏照については、私信プライベートレター さえ見たことがありませんが…というか、嶋屋親子って誰?


▲ 宝生大夫と小田原「報身寺」

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~お寺でいただいた絵葉書~


ここで、to my surprised、更に驚いたことに…
『戦国武将と能』には、氏照の本陣「報身寺」の阿弥陀来迎図(掛軸)は、鎌倉時代に制作されたものを天正7年に宝生新次郎さんが寄進したものだとありました!


それで、
今ごろ思い出しました。以前にブログに書きましたが、報身寺さんをお訪ねした時に、この掛軸のお話を伺っていましたのでござります!

この来迎図は、現在は東京国立博物館にあると。そこまでは本には書かれていませんが、確かです。その時、東博さんに問い合わせをしましたので。常設ではないとのことなので近々展示されることはないかと伺いましたが、その時は未定とのことでした。


(加筆:東博のHPには阿弥陀「如来像」となっていますが、報身寺さんの阿弥陀様の独尊像のお軸はひとつだけですので間違いないと思います。お寺の方がおっしゃるには、「来迎図」だと阿弥陀様が大勢引き連れた図であり、こちらは阿弥陀様お一人なので「如来像」となったのだろうとのこと。墨書のことについては、ただ今東博さんに確認中。)


しっかし、どひゃ~。ドびっくり~。

何にびっくりしたのかと言うと、掛軸のことを今の今まですっかり忘れていた自分に。そろそろ始まってきたか、マリコ・ポーロ。いや、その時は小田原攻めのことばかり頭にあって…ゴニョニョ。


掛軸の裏の墨書には、次のようにあるそうです。潮音寺とは報身寺の以前のお寺です。

天正七歳小田原 
潮音寺江祖父母 
寶生新次郎納入 
    元禄五歳 
      壬申七月二十二日 
         寶生九郎 
               重吉(花押)

祖父母とありますから、一閑大夫の供養のために奉納したのですかねえ…。元禄5年に九郎さんと重吉さんとあるということは、徳川になっても宝生家は小田原にいたのですかねえ。見てみたいですねえ。東博に展示されても裏側は見られないですねえ。


▲ 『匠明』

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~『匠明』の「舞台」のページ。~


『匠明』は、桃山時代に書かれた「木割書」です。これまた別の北条大師匠が薦めてくださいました。「木割」というのは、建築物の各部の比例をいうものだそうですね。

『匠明』と『匠明五巻考』は、大きな図書館に行かないと置いていないようです。私はいつも都の中央図書館に行きますが、「閉架」だったので頼んだところ、職員の方がいる近くの机での閲覧でした。かなり傷んでいて、貴重な史料だからだそうです。コピーも自分では出来ず図書館が取ります。なので、ご興味がある方は上の写真を拡大してご覧くださいませ。

冒頭の「舞台 昔ハ 泉殿ト云リ」が、ちと意外。


全てがこの基準ではないでしょうが、桃山時代以前に造られた舞台はどんなものだったのでしょうね。
皆様ご存知のように、当時の猿楽は主に座敷やアウトドアで行われました。あの朝倉館や三好亭でさえ、舞台は「仮設」だったそうです。

上記の『戦国武将と能』で少し見つけました。


(信長の岐阜城)

「…その山頂に彼の根城があります。途方もなく大きな自然石の垣がそれを囲んでいます。第一の広場には優れた用材で造られた一種の舞台があり、そこでは演劇や公の祝祭の余興が行われている。…」
by ルイス・フロイス

 

岐阜城へは参ったことがないのですが、曲輪に舞台があったのですね。フロイスさんの書いたことだけからすると、舞台は青天井ですかね??桃山時代より少し前ですし、信長のことですから仕様は「匠明」の基準とはまったく違う独創的なものだったのかもしれません。ということは、安土にもあったのですかねえ?


(信玄殿の躑躅が崎館)

 

信玄殿ファンならご存知でしょうが、「御能館」があったそうですね。御能館には使用の細かい規定があるんですって。『甲陽軍艦』に記されているそうです。

一 舞台の高さはお座敷によるべし
一 舞台の高さは勧進能は少しかはる
一 田楽、猿楽に太刀を可渡事


これらからわかることとして、本にはこうあります。
「武田家では「座敷能」が頻繁に催されていたことや、舞台では猿楽座の勧進能や田楽能も上演されるなど…」と。

しっかし、昔の史資料を調べるのって楽しいですねえ。限がありませんのう。


以下よろしければタイトルをクリックしてご覧くださいましたら嬉しいです。

「小田原攻め、北条氏照の本陣」
「現(うつつ)か夢か 小田原城 薪能」

下山先生の『戦国武将の居城と暮らし~北条氏康』について
「小田原城のライフスタイルと饗応の膳」

「北条氏照の「大善寺」と「土方能」」


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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天正18年の供養~氏政・氏照墓前祭と八王子「相即寺」

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マリコ・ポーロ


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~「相即寺」地蔵堂。延命地蔵。150尊の石のお地蔵さまが周りをぐるりと囲んでいる。~


八王子の相即寺は、八王子城戦での犠牲者のうち、「近藤出羽守」はじめ寺に縁故の首を引き取ったお寺のひとつです。その数283体。約180年後の明和年間、150尊の石のお地蔵さんと、延命地蔵を堂内に安置し供養しました。

八王子衆の古老(失礼)であり研究者のS氏の話によると、地蔵堂は今でこそ床がコンクリートですが、八王子衆が子供の頃は土間のままで、雨なんかが降ると土から骨が出てきたりしていたそうです(南無…)。


天正18年6月23日。
落城した城跡に残された遺体は、八王子城側だけで「数千」と伝わっています。

「数千」とは漠然とした言い方ですが、八王子衆の古老…たびたび失礼、重鎮であり研究者のS氏が、八王子戦にかかわった敵味方双方の武将の書状や、氏照が帰依した心源院はじめ周辺の寺などに残された記録など様々な史料から検討したところ、数千なんてものではなく、遥かに上回る数だったようです。実際、その後、前田家では兵を補充しなければならなくなり、募集をかけています。

遺体を引き取ったお寺も、相即寺だけではなく、先のブログにも書いた「大善寺」や、「大悲願寺(あきる野)」など多数です。


6月23日、八王子城ではそれほどの人達が命を落としたのです。城跡にはどれだけの血が流れ、回収しきれなかった遺体が今でもどれだけ埋まっていることでしょう。

『戦国の終わりを告げた城』の著者であり八王子城を守る会の重鎮であった亡き椚國男先生は、城に入る時、必ず運動靴を洗ってから登城してらっしゃいました。敵味方関係なく、戦死者への弔意を持ちながら城跡を歩いてらしたのですねえ。


だから、6月23日はこの城で果てた人達の魂が鎮まるように、城跡は静かにしてあげていたいと思います。旧暦、新暦、関係ありません。6月23日なのです。

だから、昔から「6月23日は城に入ってはいけない。入ると良くないことが起きる」と土地に伝わっているのだと思います。それは祟りを恐れるのではなく、供養の気持ちから発したことなのだと思います。


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~八王子郷土資料館でも、ボランティアさんによる「紙芝居」で落城の悲劇が伝えられている。~


7月8日の朝目が覚めた時、「あ、今日は相即寺の延命地蔵の御開帳の日だ!」と思い出しました。7月8日は、現代の戦で八王子に疎開していた小学生がP51による銃撃を受け犠牲となった日です。

御開帳は、6月23日・7月8日・8月8日の年に3日だけなので、なかなか都合が合わず一度もお参りしたことがありませんでした。午後は用事があったため、急いで八王子に向かいました。


お堂の扉は開いていました。足を踏み入れようとして一瞬ためらいました。床を踏みにくいですよね~。堂内も延命地蔵も、物凄い気配。こんな立派な地蔵尊は初めて観ました。写真よりずっと素晴らしいですよ。

合掌…


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~西蓮寺。右側が薬師堂。~

また、相即寺の斜め向かいの「西蓮寺」の薬師堂の梁には、天正18年に景勝率いる上杉軍が焦がしたと伝わる焼け焦げ跡があるそうです。陣中の煮炊きをしていてとか、護摩を焚いていてとか言われています。

八王子衆に聞いたのですが、椚先生方が若い頃は、その焼け焦げ痕が分かったそうです。今は、私には見えません。


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~北条氏政・氏照墓前祭~


7月5日、小田原開城。
そして 11日は、兄上氏政と我らが北条氏照が果てた日です。小田原では、北條顕彰会さんの主催で(詳細は下記ブログ記事をご覧くだされ)、市長さん(今年は副市長さん)、観光課、文化財課、そして一般ファンも自由に集い、墓前にお参りします。

今年は雨の平日でしたが、時間になると続々と参集。読経が始まり、みな粛々とお参りして帰ります。しずか~ですが、なんとなく想いを分かち合えたような気がします。


ちなみに、7月11日は三浦一族が宗瑞によって滅ぼされた日でもあります。
合掌…


ま、供養の仕方は人それぞれ。また、致し方なき仕儀もござる。百言居士のマリコ・ポーロの申すことゆえ、聞き流してくだれれませ。


「八王子城、戦い済んで日は暮れて…」

「八王子城戦~前田家臣たちの証言と、彼らの驚きのその後」

「今夜半、八王子城総攻撃始まる」
「今日(23日)八王子城、落ちる」

「檜原の残影、横地監物と武田の松姫」
「約400年ぶりに八王子城へ戻った横地監物」

↓ 氏照が帰依し、戦の跡の城で一体一体に引導を渡した牛秀讃誉上人の隠居所のことです。
「新選組と北条氏照の日野」

↓ 以下のブログ記事に、天正18年の北条一族を書いた記事を添付たくさん添付しました。よろしくば。
「北条氏政・氏照 「墓前祭」~今年も小田原開城に思いを馳せる」(2017)
「恒例 「北条氏政・氏照墓前祭」(2018)」

↓ 以下は支城などの供養祭の模様です。

「北条氏邦と大福御前慰霊祭(2012)」

「玉縄城の歴代城主の法要が営まれました」

「津久井城開城祭~合戦劇従軍レポート(2013)」

「報告!「津久井城開城記念~攻防戦(2012)」

「三増合戦まつり 従軍レポート(2013)」
以前の三増従軍レポートも記事文末に添付あります


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

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北条の「城郭(支城)ネットワーク」は本当にあったのか?

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 マリコ・ポーロ


その前に…

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横浜歴史博物館で開催中の「"道灌以後"の戦国争乱 横浜・上原家文書にみる中世」を観てきました。大変密度の濃い展示で、全部観るのにかなりの時間がかかりました。

長塚孝氏の「葛西城の攻防と東京湾の戦国」、黒田基樹氏の「太田道灌の子孫たち」の講演も拝聴しました。特に長塚孝氏のお話しのメインは、足利のヨッシー(義氏)と国府台合戦だったので、とても面白かったです。

また黒田氏ですが、私の?浄心院さまの夫である(大和守)太田資高が、もしかしたら、道灌の伯父の(大和守)太田資俊の系統だった可能性もあるとの話をされました。岩付衆の岩付太田師匠がおっしゃるには、資俊 は江戸歌合わせに名前がある人だそうですね。こんな話は初耳です。調べてみます。


さて、本題。

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~講演「北条氏の城郭ネットワーク」レジュメと史料~


イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖いですよ
(by 鳥居和郎氏)


このところ立て続けにそういう事例に遭遇しているので、他人事ではなく、超素人のたかがブログなれど自らも肝に命じてブログを書きたいと思いました。しかし、マリコ・ポーロ、はじめにイメージ有りきだからにゃ~…。


冒頭は、
北条の支城ネットワークは本当に「ネットワーク」だったのか?

って?いきなり目からミツウロコ
👀





小田原にて開かれた講座「北条氏の城郭ネットワーク」を拝聴してまいりました。

講師は元神奈川県立歴史博物館で現在は小田原市文化財保護委員会委員である、鳥居和郎氏。主催は、「小田原北条の会」です。会は3年前に発足。皆さんお馴染みの北条研究者の方達の講演などを毎月精力的に催しています。


講演の最初は発掘調査研究の現状についてでした。こちらに関しては、私の聞き間違い・勘違いなどがあると申し訳ないので割愛。へ~、そういうものなんだ~! という感じでした。(←気になっちゃいますかね。)

そこで例としてお話しに出たのが、「手づくねかわらけ は威信財なのか?」ということでした。


鳥居氏はこのことを数年前に論文に書かれたそうですね。とても興味をひかれましたゆえ、終了後に城内図書館でコピーし拝読しました。後半に書いたのですが、異常に長くなり過ぎたので次回にします。こちらも…👀 ▲▲▲(横向き~)

色々な見方があるのですねえ。


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~本城小田原は、百合が真っ盛り~


講演は、当然に史料中心になりました。

また、鳥居氏は、「なるべく客観的に話すようにするが、自分は文献史学の人間なので、その面からの話になってしまう。だから全てが合っているわけではない」との旨の前置きがありました。上の赤字のフレーズはその時に発せられた言葉です。


支城制の展開
1.伊豆(口伊豆・伊豆奥)2.相模(西・中・東・三浦・奥三保)3.武蔵、それぞれの領とそれを管轄する城についての、詳しい解説。

支城制というのは北条だけではなく、どの戦国大名もやっていたこと。北条は印判状制度でその機能をより発揮した。


城の維持や管理について

1.郷村に対する賦課
銭で払う役銭-段銭・懸銭・棟別銭と城米銭
肉体労働の夫役-大普請・陣夫・廻陣夫

役銭は、氏康の時に3種類に整理されたが、文書(相模原の田名への朱印状など)によるとその後も城米銭が使われている。これは、「追加」ではなく「名目」か?


ここでビビッ!ときたのが、「竹千代殿の御飯米」
~玉縄の城米銭を小田原へ持ってくるように。これは、「竹千代殿」のご飯米で使う。~

永禄8年9月3日の田名(玉縄領)への朱印状です。永禄8年に小田原にいた竹千代「殿」!? 家康では年齢が合いません。小田原にはたくさんの他家からの預かり人がいましたからねえ。


あ、いかん、いかん。「イメージを作ってしまうと怖い」でした。人質とは限りませんよね。

永禄8年。国府台が終わり、岩付から三楽斎殿を追い、氏康殿が関宿を攻めた頃ですね。この竹千代殿とは、どなたですか…?


2.職人に対する賦課
鍛冶・番匠・船番匠・大鋸引・石工など


3.家臣に対する賦課
役(普請)、人数着(軍役)、出銭(銭)

例えば、岩付の氏房さんが道祖土氏(さいと氏-正確な漢字がPCで出ません)へ、本城へ人足を出すようにとの朱印状があります(天正15.2.6)。


道祖土氏は岩付の有力国人で、現在も岩槻にお住まいの家だそうです。これは、支城主が、本城への人足を自身の領域の有力国人から出させるという指示書です。

(それにしても鳥居氏、終始、「国衆」という言葉はお使いになりませんな。ワテもワテの知人方にもそういう人多いですが。)


例の、六郎さん(佐野の氏忠)が、某城(前欠のためどこの城か不明だがたぶん本城小田原)での番衆についての指示内容にもあるように、何度も何度もどこへも同じ指示がされているということは、つまり、それが徹底されていないからだと。

そうか…。そういうことって、今も普通によくあることですよね。例えば「掃除をしろ」という文言についても、これだけ書かれているのだから、さぞや城は綺麗に掃除されていたのだろうと私は思っていましたが、違うかもしれないんですね。何度言っても(書いても)出来てないから、また言う(書く)ということか。

ってことは、けっこう汚れていたってことでっかね? 掃除してよってね。


イメージをつくってはいけないね。多方面からみないとね。

そして、城への兵力配置の様子などを、主に朱印状を元に解説してくださいました。面白かった~。


史料からみる本城と支城

まとめです。
以上の私の書き方では伝わりにくくて申し訳ないですが、本日のポイントは、果たして北条の「城郭(支城)ネットワーク」というものは本当にあったのかということを様々な史料から検討したところです。


北条の特徴のひとつであるといわれる「支城ネットワーク」。講演のテーマが「北条の城郭ネットワーク」でしたから、私は、そのネットワークがどういうものだったかの話かとばかり思っていました。「そもそも論」からくるとは考えたこともなかったので、目からミツウロコが落ちたのです。

 

もちろん、「城郭」も「支城」も「ネットワーク」も当時は無かった言葉です。鳥居氏いわく、「実はネットワークという言葉の検証はされていない」「なんとなく使っている言葉」とのこと。


「ネットワーク」の意味を調べると、それは「相互」に働くものとなっています。しかし、本日参考とした史料からうかがうと、確かにそれは「相互」には働いていないです。

鳥居氏は、
‐ 史料をみる限り、双方向的なものではない
‐ 支城ネットワークというより、本城からの一方的な指示のよう


受講者からの質問「支城間での相互援助のようなものはあったのか?」に、
「たぶん、ない」
と。


そして、最後の天正18年の頃。
本城は支城の精鋭たちを本城に全部集結させ、仮に「支城ネットワーク」のようなものがあったとしても、それは完全に機能しなくなってしまった、と。


…無念なり  by マリコ・ポーロ


支城ネットワークについて、あらためて考えてみたいと思いました。

というところで、次回のブログ記事は、同じく鳥居和郎氏の論文より、「手づくねかわらけ は威信財だったのか?」を。


玉縄城の会でも、江戸湾の北条水軍についての真鍋淳哉氏の興味深い講演があったのですが、なかなか書けないでいるんです。

それから、↓ 「小田原北条の会」、次回の案内です。

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マリコ・ポーロ こと 萩真尼


画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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「手づくねかわらけ は権威の象徴だったのか?」鳥居和郎氏

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マリコ・ポーロ


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「手づくねかわらけ は本当に威信財だったのか? その流通や価値観からみたらそうではないのではないか? かわらけ をもらって喜ぶのだろうか?」

前回のブログ記事で書いた、「小田原北条の会」主催の 鳥居和郎氏 による講演 「北条の城郭(支城)ネットワークは本当にあったのか」での、「イメージをつくってしまうと、それが本当だと思い込んでしまうから…怖い」のお話しの中で鳥居氏がおっしゃいました。


ビビッ!ときたので、論文を拝読しました。『戦国大名北条氏と手づくねのかわらけについて』神奈川県立歴史博物館 研究報告 人文科学 第40(2013年)です。

目からミツウロコ
👀


▲ 
アゲイン


カラオケ♪ …ちゃう、かわらけ や 手づくねかわらけ については、マリコ・ポーロなぞより皆様の方が良くご存知のことだと思いますので省くとして。

手づくねかわらけ は ロクロ成形の量産品とは違い格の高いもので、北条に関しては当初は本城主が生産し、儀礼に使われ、何かのおりに支城主に下賜されるものであり、当主の権威を示すものだ、と私は認識してきました。

ところがギッチョン。


● 手づくねかわらけ は威信財だったのか?

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しょえ~。そんなこと考えたことも読んだこともなかっただ。


そう言われちゃうと、すぐ、確かに~(-_-) かわらけ は使い捨ての食器。素材も単なる土だしね(土物の陶芸家の方すみもはん)と思っちゃうマリコ・ポーロ。

でも 手づくねは、支城より本城からの方がたくさん出てきているし、博物館の展示では特別扱いだし、白だのピンクだのと分類され、なかには年号が入っていたり金箔を貼ったりしているものもありますよねえ。唐物ではないけれど、なんとなく価値高そ~な雰囲気。


論文には、「「権力の象徴」とみることには慎重になる必要があり」「継続的に使用された背景には、当主の「好み」という要素も考慮する必要があろう」とありました。

また、北条の かわらけ の研究は、「発掘資料という性格上、考古学的な手法で分析がおこなわれ…」、「発掘状況からみると、そのような解釈は可能となるのかもしれぬが、他の視点も交えて見ると別のイメージも浮かび上がってくるのではなかろうか。」ともあります。


それが、上に書いた、その流通や価値観からみるとか、かわらけ をもらって喜ぶのか?ということなんですね。元々の 手づくねかわらけ の価値がどれほど~ だったかですよね。例えば氏綱公が今川とか京から 手づくねかわらけ を頂戴して「威信財」と感じるほど嬉しかったのか?

もしかしたら、単なる氏綱様のお好みとして、「お!ちょっと味があって良いのう」だったかもしれない。支城主に与える時にも、「これをそちに進ぜよう」と三宝に載せて恭しく渡したのではなく、「ワシの好みなんじゃが、ちと良いじゃろ~。あげる。」とおっさっただけかもしれない。


でも、いただいた方の息子や孫や重臣達は、大途がくださったものだから大事にしなきゃと思ったかもしれないし。そして、次の世代になっていくと当主や息子たちが支城で儀式を行う時なんかに持ち込んで使うようになった…

あ、イカンイカン。どんどん脳内でイメージがつくられてしまうだよ。


● 小田原での手づくねかわらけ登場のキッカケ

手づくねかわらけ の北条での使用が始まったのは氏綱の頃ですよね。私は、それは、北条の支配が確立し始め、幕府の儀礼の導入や京の武士達の小田原への流入が盛んになったからだと思っていました。

しかし、もともと伊勢家は儀礼の本家本元であり、ましてや将軍の申次である新九郎さんは武家儀礼については専門家。息子の氏綱も、とっくのとうにそれらのことは承知の介。だから、「北条家に手づくねかわらけが登場した契機を、同家が幕府の儀礼を導入することに伴ってとみることは、やや説得量に欠けるところがあるのではなかろうか」と論文にはありました。

確かに~(←すぐ、また)


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~その頃のことは ↑ ここに。「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ 小学館。~


では、キッカケはなんだったのだろう?

氏綱様の仲良しイトコ今川氏親さまのところでの手づくねかわらけ の登場は、氏親さまが京から中御門家の姫(寿桂尼)が嫁いできた頃。そして、北条で手づくねかわらけ が登場したのは、氏綱様が近衛さんから後添いをもらわれた頃。


論文には、「このような両家の状況は偶然の一致とは思えないものがある」「公卿家の女性との婚姻が契機となったと考えることも不自然ではない」と。つまり、武家の下向ではなく、公家の下向がそのキッカケかもしれないということですか。確かに~(あっ、イケネ💦)

でも、「裏付ける史料も存在しないため可能性を指摘するにとどめる」って。


むすび

手づくねのかわらけが、清浄な食器(一回使ったらもう使わない)という本来の機能に加えて、北条氏の権力の象徴という評価が行われることについて、

「この評価には、権力者側(北条氏)だけではなく、支配される側もその価値観を共有する意識がないことには成り立たない。… 検出状況からはそれらを読み取ることができず…」。


そして、登場キッカケ状況が類似する今川家では、手づくねかわらけ は定着しなかったそうです。では、なぜ北条家では定着したのか?ロクロ成形も外見を「手づくね風」になっていったので、それらの理由を考えることも重要であるとされています。

ここまで読んでくると、それはやっぱり、おっさる通り、五代当主の「お好み?」って思ってしまいましたが、論文でも「そこには「権力の象徴」というような意識は存在せず、単なる「嗜好」の領域と考えることができるのではなかろうか」。


以上、私がビビッ!ときたところだけを書きました。万が一、勘違い間違いがあると鳥居氏に申し訳ないので、ご興味がある方は論文を読んでみてくだされ。手づくねかわらけの本城から支城間での移動など、もっと色々なことが書かれています。


「戦国時代の「ウズマキかわらけの謎を解く」展」(2011.2.23)

「北条の「城郭(支城)ネットワーク」は本当にあったのか?」(鳥居氏講演)


マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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消えた「豊島一族」はどこへ?

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マリコ・ポーロ


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~練馬城付近のかつての石神井川(石神井公園ふるさと文化館展示より)~


文明9年4月。
太田道灌によって練馬城から誘き出された豊島方は、江古田原にて敗退。石神井城も落城し、豊島方は逃亡する。

翌、文明10年1月。
豊島方は「対城 むかいじろ」平塚城を築き道灌に対峙するも、戦わずして北へ逃走したまま歴史上から姿を消した。

それから早(か?)541年が経つ。


酷暑ゆえ講演会のことばかり続きますが、昨日は、石神井城で催された豊島一族についての講座を拝聴して参りました。主催は「江古田の歴史を知り繋げる会」。講師は、坂東戦国史、特に豊島一族の研究ではお馴染みの 葛城明彦氏です。

こたびの講演では、道灌時代より以前の、豊島一族の平安後期~南北動乱期についても詳しく解説がありました。あまり(ほとんど💦)覚えていないあたりだったのでとても興味深かったです。


初めに…

● 豊島?豊嶋?
以前から当ブログでは「豊島氏」と書いておりますが、本来は「豊嶋氏」だそうですね。当時の記録でも「豊嶋氏」とあるそうです。遥かに時代は下って、「豊島区」が出来てから「豊島氏」と使われることが多くなったそうです。


● 豊島泰経の名前
豊島氏は代々、鎌倉北条の「北条泰時」の「泰」を使っていると言われています。坂東戦国時代好きの私達が一番知っているのは「豊島泰経」の名前だと思いますが、実は「泰経」という名は江戸時代に出てきたもので、今の歴史研究者や豊島氏ファンは「泰経」とは言わないそうですね。『道灌状』などの当時の記録には「豊島勘解由左衛門尉」と官途名があるのみで名前は不明だからだそうです。


2019-2

ほにゃ、にわか仕込み の豊嶋一族の歴史をレジュメを元に(ほとんど書き写し状態)時代順に書きながら、余談を混ぜて一族の興亡を辿ってみたいと思います。余談の面白い話が多過ぎてここに書ききれないのが残念なり。


▲ 豊嶋氏とは

豊嶋姓の初出は、治承4年(1180)『吾妻鏡』。
初期は川や海での交易が中心 → 農業中心となり → 四百年余り続いた一族。


源氏に従っていた、平安後期~鎌倉初期

(保元の乱)豊嶋俊経、源義朝に従う
(平治の乱)豊嶋清元、滝野川にて首藤家通を討つ
この 清元=法名清光 の代に豊嶋氏は鎌倉幕府の御家人として勢力を拡大。

ここが一族の 最盛期 ヾ(´∀`)ノ


☆ 余談のひとつ「平塚神社の甲冑塚」
豊嶋氏が源義家から賜った鎧を、元永年間に埋め塚を築いたとあるが、この塚は、甲冑を埋めたのではなく古墳(たぶん)。


鎌倉北条についたと思われる、鎌倉中期

嗚呼、しかし…
(仁治2年/1241)清元の曽孫である豊嶋時光は自身の所領
(豊島荘犬喰名=北区尾久か?)をサイコロ博打の質とし、その罪で所領を没収!

ドびっくり~ (@_@)


新田義貞についた、鎌倉幕府滅亡時
(元弘3年/1333)分倍河原で幕府軍を打ち破る。


☆ 余談のひとつ「石神井の道場寺」
中先代の乱を起こした北条高時遺児・時行の子を、石神井城主豊島景村が養子とし建立と伝わっている。しかし、この頃このあたりはまだ豊嶋氏の所領ではない。

たぶん、豊嶋氏の前にこの辺を支配していた宇多・宮城などの菩提寺を、のちに豊嶋氏が中興したものであろう。


足利方についた、南北朝時代
(貞和5年/1349)豊嶋宗朝に石神井郷が譲り渡され、豊島一族による石神井の支配がはじまる。


これを一族の発展とみるか衰退とみるか?というと、衰退であろうと。勢力が衰えてきたので、このあたりへ来たのではないか。

また、本拠地を移動させたのはこの頃だと思われるが、(応永2年/1395)に以前没収されていた石神井郷を戻された直後かもしれないとのこと。


☆ 余談のひとつ「豊嶋泰景」
初代の石神井城主は豊嶋泰景で、次代が景村とされているが(『新編武蔵風土記稿』)、泰景・景村が実際にいたかどうかは不明。


平一揆

(文和2年/1353)武蔵野合戦での尊氏さま方の勝利により、貢献した平一揆の中心となった豊嶋氏も少し盛り返す
ヾ(´∀`)ノ


が、しかし…

尊氏さま子息基氏&執事の上杉憲顕は平一揆の勢力拡大を警戒(たぶん)

(応安元年/1368)基氏死去の翌年、ついに平一揆は上杉憲顕とぶつかる!

上杉方の勝利


豊嶋氏は領地をうばわれ、また衰退
(ノД`)・゜・。


以後は上杉に従う


豊嶋氏は入間川(隅田川)や江戸湾沿いの活動をやめ、石神井川沿いの開拓を始めて付近の土地に根付いた領主となっていったのではないか?そして、

石神井城・練馬城の築城

石神井城と練馬城は、三宝寺池や石神井川の水源をおさえるための城とみるのが一般的だそうですね


チト休憩

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~石神井城の戦国期の溝の跡(オレンジ)は ↓ のように垣根で示されているそう。知りませんでした。~

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~溝で囲まれたエリアはけっこう広さがあります。何に使われたのでしょうか?~


休憩おわり 


滅亡への一歩、享徳の乱

関東は、利根川・渡良瀬川・荒川をはさみ、上杉方と足利公方方に二分する。豊嶋氏は上記のように上杉方。地理的にもまわりはすべて上杉方だったから。


(長禄元年/1457)太田道灌により、足利公方と戦うための最前線基地として江戸城・河越城・岩付城が築城される

(同年)江戸と河越を結ぶ軍用道路として、河越街道 を整備する


☆ 余談のひとつ「川越街道」
当時の河越街道は、3㎞ ぐらいもっと北にあった

江戸時代以降は農道として使われるようになり、急坂もものかはの最短距離で両城を繋いでいた直線道路では通行が大変。緩やかな場所を通ることができるように変わっていったそう。

また、川越街道は当時だけではなく実は現在も軍用道路。街道沿いの施設を考えてみてごらんくだされ。


話を往時に戻し、

そして、江戸や川越街道周辺に領地を広げたい道灌殿にとって豊嶋氏は、だんだんだんだん、だんだんだんだん邪魔な存在に…
(>_<) アチャー

しかし一応味方同士なので攻めるわけにもいかない。では道灌殿はどうしたか?


豊嶋領内へ、どんどんどんどん寺社を建立したのです。つまり、領地を浸食し、道灌自身の領から住民も移住させたそうです。これらになす術がなかった豊嶋氏の力はかなりの衰えですな。

豊嶋氏はどうしたらいいのでしょうか?


長尾景春の乱

(文明5年/1473)長尾景春の乱勃発!

豊嶋氏は、長尾景春につくのですね~。
講師の葛城氏はこれを、「豊嶋氏勢力回復のための最後のチャンス!」とおっさいます。

(文明9年/1477)豊嶋勘解由左衛門尉(いわゆる泰経)&平右衛門尉(いわゆる泰明)の兄弟は、

石神井城と練馬城を戦闘用にリフォーム

河越街道閉鎖できまっせーん(by 織田裕二)…ちゃうちゃう、閉鎖します!

開戦!!


以下は以前ブログに書いた「江古田原古戦場」の記事(文末添付)とほぼ同じですが、よろぴくご覧くだされ。

豊嶋軍 vs 太田道灌「江古田原合戦」

(同年3月14日)道灌、相模の兵を呼び寄せようとするも、川の増水にて失敗
(同年4月13日)道灌、少数にて豊嶋弟の練馬城に矢入れし周辺に放火

豊島方、練馬城・石神井城両城から出撃!
「豊嶋方は、道灌が相模からの増員が出来なかったことを知って、勝てる!と思ってしまったのかも…」by 葛城氏


道灌軍、逃げるふり


道灌「馬を返して」🐎 江古田原で迎え撃つ!
伏せておいた兵達とともに三方から攻撃!両軍、総力戦。

江古田あたりは、これまで道灌殿が着々と築いてきた寺社が取り囲むエリア。つまり、道灌軍の基地状態。


豊嶋軍、敗退


☆ 余談のひとつ「平塚城」
道灌殿が最初に攻めたのは平塚城だとする説が通説でしたが、これは『鎌倉大草紙』の作者の誤解だそうです。


豊嶋軍 vs 道灌「石神井城攻め」

(同年4月14日)道灌、城山(現・早稲田高等学院付近)に布陣
(同年4月18日)豊嶋方、降参/城の取り壊しを命ずる

(同年4月21 or 28日)豊嶋方が実行しないため、道灌、再び攻撃

豊嶋方、夜逃げ


☆ 余談のひとつ「彦五郎」
どうやら豊嶋本家の彦五郎殿という方は、寝返ったようです。文明2年・福徳元年の板碑や上杉の感状などに名前があるそうです。その後も現在に至るまで、地元の有力者として同地に住んでらっしゃるそうです。

まあ、皆さんご存知のように、自家を守るためには当時はこんなこと日常茶飯事。誰もやっていることです。


豊嶋方の再蜂起

(文明10年/1478 1月)豊嶋方、平塚に「対城」を築く


道灌軍、平塚城へ向かう


豊嶋方、戦わずして北へ逃亡


以後、現在に至るまで豊嶋宗家の行方は不明


☆ 余談のひとつ「小机への逃亡」
豊島方は丸子城(川崎)から小机城に逃亡との従来の通説は誤りだそうです。記されているのは「(道灌は)北へ逃げた豊嶋方を追いきれず、その夜江戸に戻った。翌朝、丸子城の攻撃に向かった」とのみ。

北へ逃げた豊嶋方が、翌朝川崎に現われること、および、道灌が翌朝までに豊嶋方の逃亡先を突き止めることは不可能だからだそうです。


豊嶋はどこへ向かったのか?

この時、豊島が頼れるのは長尾景春と公方ぐらい。葛城氏いわく、北に向かったということは、古河に向かったのだろうか?そして、その途中で落ち武者狩りにでもあい古い名族は消えてしまったのではないだろうか、と。


ふぅ~。以上でござる。講演の内容はこれで合っているかな。不審な方、もっと知りたい方は、葛城明彦氏の著作「決戦」をお読みくだされ。

講演の後半は、石神井城に伝わる照姫伝説と金の鞍伝説がどのように作られていったかの話でした。

ほにゃ。


「太田道灌 vs 豊島一族の「江古田原古戦場」」
「豊島一族の「練馬城」を歩く」
「講演 太田道灌と豊島一族 2013」



マリコ・ポーロ こと 萩真尼

画像は全てマリコ・ポーロが撮影しました。コメント欄をもうけております。公開させていただいてはおりませぬが、ご感想なりいただければ嬉しいです。

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